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「シンベリン」@さいたま芸術劇場

さいたま芸術劇場が蜷川幸雄を芸術監督に迎え、
「シェイクスピアは全部やる」を掲げたのは、1998年。
今を去ること14年前である。
その理念と継続の力が、この「シンベリン」を「名作」に仕上げた。
こんなに「大したことない」話に、
ここまで説得力を持たせ、リアリティーを持たせ、大団円がうれしくなる、
そんな演出をした蜷川幸雄という人に、ただただ脱帽。
そして、
ここまで揃えられるかっていうくらいの俳優達が舞台上に集結。
蜷川の求めるものを、体現できる人々ばかりである。
「笑い」のツボを心得た3人の名優たち。
タイトルロール・シンベリン役の吉田鋼太郎、
おバカな王子・クロトーン役の勝村政信、
そして、あちこちで笑わせながらも
「不義って何?」のひと言だけで観客を涙させる、大竹しのぶ!
手だれである。
彼らの間合いとトーンの緩急は、ロンドンでもきっと人々のハートをつかむだろう。
かたや、フレッシュな若者たちの挑戦。
つい最近、ネクストシアターでハムレット役を好演した川口覚が、
透き通った素直な声で、またまた「隣りの青年」のごとく懐に入ってくる。
逆に浦井健治は、ファンタジーな役どころをファンタジーとして演じきる。
野生味と品格を併せ持つ甘辛の魅力。「実は王子」にふさわしい。
早口で情報過多なシェイクスピアのセリフを、
1人ゆっくり、噛みしめるように吐く窪塚洋介の存在感。
動の中の静、笑いの中の孤独、幸福の奥の地獄。
最後まで、1人だけ幸せになれない男を演じきった。
阿部寛もよく頑張った。
たまにセリフがもごもごするものの、
まっすぐすぎるのも困ったもんだの男の直情を、どこまでも突き進んだ。
ありったけの言葉で「女」を呪う場面は圧巻。
つかさん、天国で見てるでしょうね。
それにしても。
台詞を決して変えない蜷川が、
ただ一つの読み替えを行った。
その一つの読み替えが、舞台をつくり、クライマックスをつくり、
そして、結末のゆくえをつくった。
あまりに安直、とする向きもあるかもしれない。
しかし、
あの造形と、そしてサイレンの音とが、
私たちにこの、とんでもなくドタバタなかの国の大昔のロマンス劇を
より身近なものに、よりリアルに、説得力をもって感じさせているのは確かである。
パンフレットには、
この「シンベリン」はヨーロッパの近代演劇ではうまく料理しきれないから、
日本的、アジア的なテイストでやってみてくれ、蜷川、っていう感じで振られた、
と蜷川が思っている点が書かれていた。
そのもくろみは、当たったね。
これは、まさに歌舞伎なのだ。
「やつし」つまり、「実は」「実は」の多重構造。
男が女に、女が男に、の構造。
死んだと思っていた人が、生きている構造。
仇が、実は親子だった、の構造。
怨念がほとばしる構造。
そして「くどき」の数々。
だまされて、誤解されて、しかし最後にすべてが溶解する構造。
死んだ人が、生きている人に作用する構造。
死体と愛欲が隣り合わせの構造。
南北さんの世界、ですよ。
現在、日本経済新聞に連載している「私の履歴書」で蜷川は、
子ども時代に母親に連れられて、よく歌舞伎やらオペラやらを観たと書いている。
歌舞伎で、暗闇を、無言の手探りでたくさんの人がうごめく「だんまり」を
子ども心に面白いと思った、という。
その一節に当たったとき、
彼の舞台上に必ず現れる「スローモーション」は、「だんまり」なんだな、と
妙に納得できた気がした。
とにかく。
複雑すぎるストーリーなのに、前半1時間があっという間にすぎる。
白雪姫の継母をほうふつとさせる鳳蘭の怪演にも注目。
観るべし。

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