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「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」

この映画ほど、観る者の年齢によって感想が異なるものはないだろう。
団塊の世代にとっては青春の疼きであり、
それより下の世代にとっては、これほど浮世離れした映画も珍しい。
全学連と全共闘との違いを、あなたはわかるだろうか。
その上に民青とか革マル派とかセクトとか、もう何が何だか。
「学生運動」そのものが、すでに死語といっていいかもしれない。
たった50年前のこと。1968年のことである。
ヘルメットをかぶり、タオルで顔を覆い、火炎瓶を投げ、角材で人を殴り倒し、
それが正義であり、それが革命であると、本気で信じていた若者が大勢いた風景を、
あなたは想像できるだろうか。

そんな野蛮な一面とは別に、彼らは超インテリでもある。
だから、文豪三島由紀夫との討論は、凡人には何を言ってるかわからないほどにシュールだ。

言葉、言葉、言葉。

「他人とは何か」「自然とは何か」「解放区とはなにか」
「時間も空間も超越したもの」とは?
「名前も用途もない事物」とは?

互いに言葉で相手を凌駕しようとしつつ、
互いの言葉に耳を傾けてる。
今、人を罵倒せずに、持論への長い長い反論をじっと聞ける人がどのくらいいるだろう。

中島みゆきの歌ではないが、「そんな時代もあったよね」と思わず口ずさみたくなる。
少なくとも、私には、そんな郷愁がある。
長髪の、インテリの、どこまでも言葉で論破することにカタルシスを感じるらしき「お兄さん方」を、私は知っているから。
そういう「お兄さん方」に、憧れを抱いた世代でもあるから。その知識量をすごいな、と思った経験があるから。

しかし、
これほどまでに「言葉」を信じる彼らが、なぜ「暴力」で事を済ませようとしたのか。

サルトルが嫌いだという三島が、サルトルの哲学を引用して話す。
三島のような考えでは、すでに芸術家として終わっている、という学生は、しかし三島の評論を全部読んでいる。
これほどに形而上学的な話をしているのが、
やがて自衛隊に決起を促し自決してしまう右翼作家と、ゲバ棒振り回す左翼学生だという事実。

一方で、
日本にこれだけの「暴力」が巷にあふれていた「時代」があったなど、今の若い人には想像すらできないかもしれない。
学生たちは自分たちのミライを作るために、日々戦っていた。暴力でしか実現できない、と信じ込んでいた。
彼らの暴力を許したのは、戦争を起こしていた世代だ。
戦争を、真の修羅場を潜り抜けてきた世代にとって、学生の「暴力」はお遊びにしか見えなかったのだろう。
だから、彼らは負けたのだ、と、私は映画を観て初めて思った。

もし、今、同じほどの規模の学生運動がおこったならば、
この世の中は転覆するかもしれない。
ただ、あの規模の学生運動は、今の20代には起こすことはできないだろう。
そのことも、改めて思った。

このドキュメンタリーは、三島由紀夫に焦点を当てているようでいて、
実は全共闘側の論客たちの50年を追った映画である。

この「50年」の間に、学生運動は幻となり、
まだ幼さの残る20代の青年たちは、有に70歳を過ぎた。
当時不惑を過ぎていた三島は、1年半後に自決してしまう。

後に残ったのは何なのか?

「敗北」から50年を、死なずに生きた男たちの、それぞれの生き様が、
「自決」を美学とした三島と対照的で、そして「美学」よりずっと力強く感じられる。

生きることは、失敗することであり、失敗しても生きることである。

https://gaga.ne.jp/mishimatodai/index.html

 

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