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「Nine」

鳴り物入りで封切られた豪華キャストによるミュージカル映画「Nine」。
蓋をあければ、かなりな不入り。
「単に有名どころを並べただけ」
「主人公に感情移入できない」
「こんな浮気男キライ!」
「日本人はあそこまでボンバーな男女関係はムリ」
「ストーリー、わけががわからない」
「結局何が言いたかったの?」などなど、
さんざんな感想をいろいろなところで耳にするにつけ、
見に行くのがコワくなるくらい、でした。
でも去年は東宝ミュージカルアカデミーの試演会から始まって、
G2演出の「Nineザ・ミュージカル」まで、
Nineづいていた私。
観ないっていうのもちょっと…と思っていたところ、
ニコール・キッドマン好き、ミュージカル好きなダンナからお誘いが!
ということで、
ほとんどの主要な映画館で最終上映週となる5/6、観てまいりました。
結果!
不評の波を掻き分けて、私、この映画「好き」なのでありました。
もっとも感動したのは、マリオン・コティヤール。
あっちゃこっちゃに女を抱える映画監督グイード・コンティーニの妻ルイザ役です。
たくさんの女性キャラのなかで、
この妻役がもっとも地味でもっとも難しい役、だと私は思っています。
沈黙の演技が多いし、
口を開けば夫をなじったり、自分の境遇を嘆いたりするばかり。
ギスギスな女性になりがちだから、魅力を感じにくいし、
「じゃあ、なんで離婚しないのよ?」って思っちゃう。
彼女がどんなに夫グイードを愛しているか。
監督グイードをどれだけ尊敬しているか。
夫グイードに自分という存在がどれだけ必要か。
そういうことをすべて自覚しながら歌う。
「マイ・ハズバンド・メイクス・ムービーズ」は最高にせつなく、
彼女は血を流すより涙を流すより、あふれる愛をとめられない。
そんな夫婦の絆をちゃんと表現している。
美しい声だ。深みのある、懐の深い声。
もちろん、ミュージカル俳優でも歌手でもないから、
「うまい」と感じられない人も多いかもしれない。でも、
こんなに情感たっぷりに声と歌をコントロールできる人は少ない。
大体、ものすごく歌が難しいんだから。
「Nineザ・ミュージカル」の新妻聖子より、断然コティヤールの勝ち。
ジュディ・デンチの「フォリ・ベルジェール」もよかった。
ダンナは「007のMに歌歌わせてどうするんだよ??」とおカンムリだったけど、
私は好きだ。
シャンソンらしさを前面に出し、パリのシャンソニエの香りを醸して
オリジナリティで不得意な歌を仕上げるところは、さすが。
彼女がちょっとハスにかまえて歌うから、
すべてが同じトーンにならずに済んだ。
老いも若きもあれもこれもフェロモンたっぷり肉食系女子じゃ、
ちょっとおなか一杯すぎるから。
ファーギーの演じたサラギーナの歌が一番よかったっていう人が多いけど、
私はあまり感心しなかった。
東宝ミュージカルアカデミー4期の菅原奈月が演じたサラギーナのほうが、
ずっとよかった。
少年グイードに対し喰らいつくほど挑発的に歌い踊るファーギー。
まだ子どもだよ、グイード9歳。
娼婦一辺倒すぎて、これにやんやの喝采を贈る9歳っていうのにも
ちょっと首傾げちゃう。
9歳の男の子に「女といえばサラギーナ」というイメージを決定付けた、
いわば彼女の女神様。
野生的で本能丸出しで肉食系の、オトナの女の魅力も大事だけど、
同時に聖母のようなやさしさ、すべてを抱きとめるおネエサマ的な安らぎも
絶対サラギーナにはあったと思う。
そこを菅原はちゃんと表現していた。だから彼女は、
私にとって最高のサラギーナなの。
「シネマ・イタリアーノ」も楽しかった。
豪華で、かつコンティーニのスタイルのキッチュさをうまく表して、
大人数やインサートカットをうまく使って、映画ならではの演出が光った。
ケイト・ハドソンは歌も踊りも一流じゃないけど、
でも下手じゃなかったし、
コンセプトがそれを上回ってわくわくさせた。一緒に体が踊ってしまった。
ダブル不倫の愛人カルラを演じたペネロペ・クルスは
期待を裏切らないフェロモン放出。
彼女って、自分が何を求められているかよくわかってる。
でも、こんなにアタマの悪い女に描かれて、カルラ可哀想。
描き方次第で、もっと奥行きの出る役なんだけどな~。
でも世の男性はマリリン・モンローにもおバカな役しか望まなかったし。
それに徹したペネロペの女優根性に拍手、なのでしょう。
一番不満だったのは、ニコール・キッドマン扮するクラウディアの描き方。
クラウディアは、グイードのディーヴァだったはず。
彼女がくれば映画ができる、と思ったのは周りじゃなくて彼自身。
その「彼女さえくれば」という思いの強すぎるところに、
クラウディアは応え切れなかったのだ。
グイードが勝手に描く理想の女性像ではなく、
女優としてもっと役の幅を広げていきたいクラウディアとの一騎打ちが、
きちんと描かれてなかった。
それは、
クラウディアと妻ルイザとがまったく交錯しなかったことによる。
ルイザは女性としてクラウディアに嫉妬しつつも、
監督の妻として、映画のディーヴァを夫に与えようとする。
映画では、
ただ監督がルイザに「映画のためにあれやれ、これやれ」と命じるだけで、
ルイザ自身がこうする、ああする、という面がカットされていた。
もう一つ、カットされていたのは宗教的な音楽。
美しい天使の歌声、空から降ってくるようなハーモニー。
そういうものはなかったなー。
少年グイードも歌わなかったし。
純なもの、清らかなものは、すべてカットですか??っていう構成。
これだと、
世間では反道徳、Sex一辺倒の監督と思われているグイードの中に
神さまや教会文化という底流があることがまったく匂わなくなる。
「Nine」というのは、さまざまな音楽のジャンルが混在していて、
そのバラエティの豊富さと難易度の高さで聞かせる部分がある。
音楽もグイードという人間も、振り幅の大きさがなくなって、
そのぶんダイナミズムさが失われ、
人間が矛盾だらけだからこそ愛すべき生き物なのだということが
言外に感じにくくなり、
ただ「わけのわからなさ」だけが突出した、
そこが不評の一因かもしれない。
何せ、もとがフェリーニの「81/2」である。
スランプの映画監督の頭に浮かんだ切れ切れのインスピレーションの映像化だ。
筋なんてない。
産みの苦しみが、断片的名「現実」と断片的な「創作」とでつづられる。
そこが「Nine」の真骨頂でもあり、
切れ切れだからこそもっと大きな世界を体感できるはずなのだ。
そういう意味で、ミュージカルにしたのは正解だったんだろう。
ミュージカルって、キホン、筋を追うだけだと頓挫するから。
そのシーンを楽しむ。
そのシーンの暗示しているものを読み取る。
それに慣れていない人には、苦痛だったろうな~。この映画。
最後に。
ソフィア・ローレンだけは、どう解釈してもミスキャストだと思いました。
「Nine」に出てくる女性たちは、
男性の欲する女性のキャラクター一つひとつを
一人ひとりが体現している、という考え方もできる。
私としては、
ママにはカルラと対照的な、清楚さがほしかった。
グイード少年を教会付きの寄宿学校に入れるママですから。
もうしょうがないんだけどね。
日本でも、「女優といえば吉永小百合」とか、あるでしょ。
替えがきかないというか。
歌が歌えなくても、イメージ違いすぎても、
彼女しかなかったんだと思います。
ソフィア・ローレンこそサラギーナのイメージですよ。
老いてもサラギーナ。そのほうが魅力的だったんじゃないかしら。
といっても、歌は歌えなかったろうし。
ママ役だけは、なんとかしてほしかったです。

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