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「五月花形歌舞伎」(昼の部)@新橋演舞場

歌舞伎座最後の「御名残四月大歌舞伎」での演目を、
若手俳優でもう一度楽しめる
今回の新橋演舞場での花形歌舞伎。
昼の部は、「寺子屋」がそれにあたる。
幸四郎がやった松王丸を海老蔵が、
仁左衛門がやった源蔵を染五郎が、
玉三郎がやった松王丸の妻・千代を勘太郎が、
勘三郎がやった源蔵の妻・戸浪を七之助が。
よかった。
皆初役ということもあり、初々しさ、一生懸命さが輝く。
時折、「書かれた通り」になぞるだけに終わる部分もあるが、
それぞれ真剣に役に向かいあり、リアリティを出すための工夫が見られる。
海老蔵は、わが子の(だろうと推測しつつ)首と対面するまでの葛藤を、
長い時間逡巡することで表現。
自分ではとうとう蓋を開けることができない。
太刀の紐をゆっくりと手からすべらせるところも味があった。
勘太郎はわが子を身代わりに差し出すことに、実は納得できていない、
当たり前の母親の感情を源蔵へのほとばしる殺気と、その後の嘆きに込めた。
しかしだんだんと落ち着いてくるのだが、
それは納得というよりは、嘆きもすべて尽きた喪失感と諦観のように見えた。
染五郎は、「宮仕えとは辛いもの…」という台詞に実感がこもった。
帰る道々「あれか、これか」などと身代わりにすべく
なじみの寺子の顔を思い浮かべるとか、
新しく寺入りした小太郎を見て「この子だ!」とパッと「機嫌よくなる」など、
源蔵のありようは、現代的にみると違和感ありすぎ。
そのあたりを
人として苦しみながらも「義のためには当然」と受け入れている
仁左衛門の演じ方に比べ、
染五郎は「ほんとうは殺生などしたくないのに」といった弱気と悲哀が
表情からにじみ出てきた共感が持てた。
海老蔵にしても染五郎にしても勘太郎にしても、
今の自分に理解できる感情を軸に役作りをしているから説得力があるのだと思う。
また七之助も含め、みな台詞がクリアだ。
声のよさは4人とも天下一品。若さからくる潤いもあいまって、聞きやすい。
聞きやすいのは声だけでなく、台詞まわしにも一因があろう。
「昔ながらの」言い回しとは離れ、かなり今風である。
それが伝統の継承にとっていいのか悪いのか、すぐに判断はできかねるが、
歌舞伎のよさの一つは「今」を取り入れるエネルギーである。
私の見た5/7は課外授業なのか、2階に学生たちが陣取っていた。
彼らにとって、テレビドラマやバラエティでなじみのある染五郎や海老蔵が、
昔ながらの演題と台詞だったとしても自分たちにわかりやすい発音で
物語を繰り広げてくれることで、
きっと歌舞伎がより身近な文化になったことと思う。
見終わった生徒たちから
「和服っていいな~と思った」「袴ってカッコいい」などの言葉が聞こえた。
「寺子屋」だけでなく、
「義経千本桜」の忠信役、勘太郎にしても、「お祭り」での染五郎にしても、
日本舞踊に目をみはった。
所作の美しさ、鋭さ、などには、
ヒップホップなどのダンスにいそしんでいる若者なら、その技術の高さに
舌を巻いたことだろう。
それにしても、海老蔵というのは、すごい天分をもらいうけた逸材なのだと
つくづく思った。
単に「華がある」というだけでなく、
ふとした表現につい引き込まれるだけの力がある。
もっとお稽古すれば、すごい役者になるだろう。
「そこは稽古を重ねなければ身に付かないだろう」と思うところが甘いのが、
本当に残念である。
その意味では、染五郎や勘太郎、松録などは
声の出し方にしても舞踊にしても、
若いながらこれまでの道のりで習得したものが見える。
改めてその努力に脱帽。
海老蔵も最近ようやく自覚してきたようなので、
これからいかに階段を登っていくのか、注視していきたい。
夜の部も楽しみである。

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