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「ザ・キャラクター」@東京芸術劇場

6/23に観てきた「ザ・キャラクター」。
ネタバレしないとどうしてもレビューが書けないので、
少し時間をおいて書きました。
これは、オウムの話です。
「書道教室」を「ヨガ教室」に、
弟子を「住み込み」か「通い」かに分けるところは
「通い」を「在家信者」と読み替えてみてください。
「書道教室」に入って行方がわからなくなった子どもを
必死で探す親・兄弟の話でもあります。
「書道教室」にとられた時点で被害者であったはずなのに、
いつのまにか加害者にさせられている話でもあります。
徹底的な非難を浴びせる言葉の暴力と、
殺人を「目撃」させ、それを「通報しなかった」事実をネタに
イノセントな信者たちをゆすり、脅し、「共犯者」とさせるやり口の再現です。
「イノセント」だった彼らも自分を正当化したいがために、
次の犯罪には積極的に関わっていくようになります。確信犯となるのです。
オウム事件は一般の人々には「サリン」「無差別薬物テロ」の恐怖として
長く記憶に焼き付けられています。
しかし、
インテリ層にとって最大のインパクトは
「高学歴で好人物で医者であるにも拘らず、
 なぜあの男は地下鉄でサリン入りの袋を傘でついたか」だったのです。
野田は東大出です。
奇しくも村上春樹が「1Q84」でオウムを取り扱っているように、
野田もまた、「オウム事件」の衝撃から逃れられないインテリの1人です。
およそ「知的」とは正反対の男の唱える支離滅裂に近い「おしえ」に
教養と学識を積み常識的に生きてきた男が従った理由は何か。
「学問」は、「教養」は、「科学」は一体何の前に膝を屈したのか。
もしかしたら、
自分もサリン入りのビニール袋をかつぎ、地下鉄に乗って
夢中で傘で突いて人を殺すことが世のためだ、と信じ込む危険性があるのか?
「そんなことは絶対にない」と言い切るために、
彼らはオウム事件を正面から向き合い、
「オウム事件とは何だったのか」を突きつめずにはいられない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
野田はこの芝居の顔合わせのときに、俳優たちに言った。
「こんなものを書き上げてしまいました。
 どこかに救いを作ろうとしたけれど、‘作家’がそうさせてくれませんでした。
 自分の立場や評価を顧みず、全てを捨てるつもりで、
 1年かけて書いてみました」
遊びでもなく、仕事でもなく、ましてや芸術のためでもなく、
彼は「知」の復権を賭けてこの芝居を書いたのだと私は思う。
だから
教祖(古田新太)、その片腕(橋爪功)、教祖の妻(野田)の描写には容赦ない。
彼らには一片たりとも「正義」があってはならないのだ。
そんな教祖たちの真の姿を見抜けず、
怒号の中で言い負かされ、評価されることで慢心し、ヒエラルキーに安住し、
人間が社会の中で紡いできた善悪と切り離されてもなお、
「従うことこそ幸せだ」と思っている若者たちを、
野田は「幻」を追い求める「幼」いやつらだ、と斬って捨てる。
同時に、憐れんでもいるのかもしれない。
直観(たとえば母親が子を思うとき)が「おかしい」と思っても、
法律やら手続きやら一般論やらで観念的に右往左往しているうちに、
世間やマスコミの論調も
「絶対おかしいとはいえない」「決め付けはよくない」みたいになっていく。
「新興宗教の教祖」を疑うのは「差別」だとした一方で、
「最初にサリンで倒れた家」の主人を容疑者と報道するのは早かった。
私たちはこの事件で、
一見知的で一見民主主義的な処理がいかに危険をはらんでいるかを学んだ。
また、
事件の起こる前と後で、自分たちのヒステリー度がいかに上がるかも思い知った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は、この作品が名作だとは思わない。完成度も高くないと思う。
観ていてスカッとするわけでもない。
カタルシスがあるわけでもない。浄化の涙もない。
ただ、
鎮魂はあった。
「8時5分」のサリンによって死亡し、傷つき、病んだすべての人々に、
あんなデタラメ男をかついで本気でこの世の中が良くなると信じたインテリが
それも自分と同世代で、
大日本帝国とか、神国日本とか、そういうものを一切廃した教育を受け、
学生運動も間近で見聞きし、
共産主義とか資本主義とかいろんなことを知っていたはずのインテリが
「知」をこねくりまわしているうちに「愚」にからめとられ、
いつしか「サリンで死んだらみんなは幸せになる」と本気で思ってしまった
そのインテリの弱さ・傲慢さを自覚し、彼らになり代わって、
「ごめんなさい」とこうべを垂れている。
そして、
「絶対に同じことを繰り返すな!」と警告している。
そのためにだけ書かれた芝居だ、と私は理解する。
結局、
「あさま山荘事件」も「オウム事件」も、
「知」の世界でリクツをこねくりまわした「幼」いインテリ若者たちが
自らの頭で考え、自らの責任を取るつらさを放棄したときに起こった。
人に従うことは楽である。
人間としての生身の痛みを重視せず、
かつ責任を負わない人々が増えることが、もっとも怖い、と
つくづく考えさせられた。
真の個人主義、真の民主主義が根付くまで、
私たちは一体あと何回このようなことを繰り返し、
むごい犠牲を払わなければならないのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ロープ」のときも書いたけれど、
「遊」んで「眠」っている場合じゃない、と野田は最近思っている。
言いたいことを深く深く沈めて「遊」んでいたら、手遅れだ、と。
テーマが突出しているだけに、
俳優たちはそれに肉付けするのが難しいだろう。
「真実を書く」ために潜入したはずの弟を捜す、という「魂胆」を持って
自分も書道教室へと入り込む宮沢りえはほぼ出ずっぱり。
彼女の演技には「ロープ」をほうふつとさせる既視感があった。
宮沢のせい、というより、野田の書き方の結果だと感じる。
私が見たとき「母親」は銀粉蝶のケガで高橋惠子。
急ごしらえなので仕方がないが、
もっと生活観のふんぷんとする、「直観的」な母親を望みたかった。
現在銀粉蝶が復帰しているので、彼女の役作りを見てみたい。
女性陣では、圧倒的に美波である。
1人、「本当のこと」をつきつめようとするまっすぐさ、
人間の肉体の痛み、もろさ、弱さ、そういうものを思いっきり体現する。
男性陣では、美波の弟役のチョウ・ソンハ。
序盤は台詞が聞き取りにくいが、
終盤、彼が教祖に傾倒していく下りに鬼気迫るものがあった。
何かに取りつかれ、周りが見えなくなるとは、こういうことか、
と恐ろしくなるリアリティである。
「在家」から中枢へと一気にのしあがる男を演じた田中哲司は、
実力を遺憾なく発揮、序盤で100%出来上がっていた数少ない役者の1人。
この2人の「イッてしまった」演技に比べると、
池内博之は少しおとなしめ。やり方によってはもっとも複雑で面白い役だ。
長丁場の公演のなかで、だんだん役どころが深まっていることを期待。
藤井隆は弱気な男を好演するも、台詞回しが舞台らしからぬところが多々あり、
これから舞台人として生きるためには、もう少し基礎を学んでほしいところ。
つい最近の事件をもとにして作られているだけに、
熟成度を問うのは酷なのかもしれない。
古田、橋爪、野田も、悪の愚かさを強調しなければという強迫観念が強すぎて、
演技としてのまとまりに欠けていた。
公演序盤だったせいもあり、こなれていなかった。
今はどうだろう。
千秋楽あたりに、もう一度見てみたい気もする。
そのとき、
「御見それしました」と思うほど完成されている、かもしれない。

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