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「春琴」

「春琴抄」が発表された昭和8年、
あの川端康成が
「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と感服したという。
かの小林秀雄も
「完全に実に完全に想像の世界を、言葉の世界というものを築きあげている」
と評している。
そんなふうに、あの小説を読み込めた日本人が、
いったいどのくらいいたのだろう。
目の見えない大店の娘と、
その娘に仕える丁稚・佐助の
倒錯した愛の物語である。
「嗜虐的な」つまり、「SMの」世界。
罵倒されても、蹴られても、おとしめられても、
いや、そうであればあるほど、
主人であり、師匠であり、想い人である春琴の
奴隷となって歓ぶ佐助の話である。
官能的で、のぞき趣味的な快楽に満ちた
一見通俗にさえ思われる物語に
これほどの崇高さと美の世界がそなわっているということを
私は一人の英国人におそわった。
サイモン・マクバーニー。
してやられた。
恥だと思った。
英国人におしえられたのである。
谷崎文学の、文学としての完成度を、
書いてあることのなまめかしさを、
愛することの苦しさの果てを、
そして、陰翳を、
三味線を、
文楽を……。
たとえば蜷川幸雄がシェイクスピアを演出して英国に乗り込んだとしても、
彼は日本文化の土俵にシェイクスピアをあげて、
自国人ではマネのできない手法で物語の核心を突く。
しかし。
マクバーニーは、純然たる日本文化を理解し、分析し、再構築して、
谷崎文学をこれでもかというほどそのまま生かし、
「春琴抄」というフィクションの世界に
「陰翳礼讃」の文明評論を入れ込み、
谷崎の美学を、谷崎の小説の中に具現化して見せたのである。
一本のろうそくが放つ、心もとないほどの明かりが、
やがて闇の中に作る、奥深い景色。
時にそのろうそくが吹き消され、
あらためて「焔」の存在の偉大さに気付かされる。
静かに奏でられる本條秀太郎の三味線は、ささやくような声よりやわらかく、
闇の中にしみこんでいく。
静寂を引き裂くのは、幼い春琴の甲高い声だ。
人形を操る黒子の一人が、深津絵里。
彼女の声とも思われぬ、一人のわがままな童女の叫びが
光と闇をつんざいてこだまする。
物語が進むにつれ成長する春琴とともに、
人形も成長し、人と入れ替わって人形振りとなり、
そして最後は黒子だった深津の中に春琴が入り込んでいく……。
あまりにも妖しくなまめかしい人形芝居の世界の中で、
そんな入れ替わりも、まったく違和感を感じない。
この倒錯した世界には
「ラジオドラマ(それもNHK第二放送)の収録」という大枠がかぶさり、
「谷崎の文章の朗読」という一本のゆるぎない筋が通されている。
ナレーション役の女性に扮した立石涼子の声は、
どこまでも「ナレーション」である。
女優としての気配の一切を消し去って、「地の文」を提供する立石の
美しくなめらかな声がまた、
谷崎の文体の完成度を浮き彫りにする。
闇の中で繰り広げられる、休憩なしの谷崎文学の緊張感を、
「収録の休憩」という形で一息つかせてくれるのも、
立石。
「読む」立石と「聴く」観客が谷崎を同じ立場で鑑賞する、
この入れ子の構成の、なんと巧まれたことか!
もう一度言う。
英国人に、日本の文学の深淵をおそわった。
その証拠に……。
舞台がはねてから、
ロビーには文庫の「春琴抄」と「陰翳礼讃」を買い求める人の群れが、
しばらく後をたたなかった。
本を開けば、
あの闇と、深津絵里の甲高い関西弁とが蘇り、
もはや消えることはないだろう。
*名舞台「春琴」は、明日3月16日(月)まで、世田谷パブリックシアターにて。
 毎回、立ち見で立錐の余地もないほどの盛況。
 しかし、見るだけの価値はある。
*この舞台は、昨年、同劇場で初演、好評を博し、
 今回は1月にロンドン・バービカン劇場での上演を果たした後の凱旋公演となる。
 

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