[DVDソフト] バトル・ロワイアル 開催081001kd2p
中学生の、それも1つのクラスの生徒全員が孤島に隔離され、
クラスメイトを殺して最後の1人にならなければ命が助からない、
という「国公認のゲーム」に巻き込まれた子どもたちのサバイバルを
「仁義なき戦い」などを手掛けた深作欣ニ監督が手掛けた映画。
原作の小説が出た時から、
「中学生を殺しあう」という設定への生理的嫌悪感が強く飛び出し、
映画化にあたっては国会質問でも言及されたりして、
かえって映画に対する認知度がアップしたといういわくつきだ。
結果的に「R-15」指定となり、
卒業証書を手に、映画館に向かった子どもたちもニュースになった。
また、
その後発生した少年による凶悪犯罪の加害者が、
「バトルロワイヤル」の愛読者であったり信奉者であったりする例が
一つや二つにとどまらなかったこともあって、
純粋な映画の出来不出来とはまったく異なるレベルで
この映画は語られることが多い。
かくいう私も、
「バトルロワイヤル」が封切られる直前、
他の映画を見るために行った映画館で予告編をみて
気分が悪くなったクチ。
「売れれば何でもアリか??」
「どこまでエスカレートすれば気が済むのか?」
辟易とした感情が先に立って、
「中身を見てみよう」なんてちーっとも思わなかった。
そんな私がこの作品をきちんと観たのは、
かなり後になってからである。
生理的に受けつけない、と思ったこの映画をなぜ見ようと思ったかというと、
数々の「バトロワ批判」に立ち向かうようにして言った
深作監督の、ある言葉が気にかかったからである。
「全員が殺し合いをするけれど、
主人公の七原(藤原竜也)だけは、1人も殺さないんだ」
私は、原作を読んでいないので、
それが原作にある設定なのか、深作監督が考案したものなのかはわからない。
しかし、
そこに監督の思いがこめられているのは確かである。
主人公は、一体どのようにして生き残っていくのか?
本当に「1人も殺さない」のか、
それは「結果的に手を下していない」だけで指令は出している、などの詭弁なのか、
そのあたりも確かめたくて、
WOWOWで放映されていたものを録画し、娘と一緒に見た。
(息子は映画館で見ている)
好きな映画か、といわれれば、そうではない。
でも、
「売らんかな」のいやらしさは感じなかった。
非常にまじめな映画である。
職業軍人でない人間が「殺さなければ、殺される」となった時、
一体どのように行動するか。
非常にわかりやすく表現していた。
原作未読のため、この映画1作だけの感想だが、
「中学生」というのは、
「イノセント」の代名詞に使われていると思う。
無垢で純粋で、しかし、反面思慮も足りない。
子どもだからこその短慮、残酷さも併せ持つ。
世間のカラクリもわかっていない。
いたく感激すれば、盲信する。
体だけは一人前だから、大人扱い。
自分も、オトナだと思っているところが、またやっかいだ。
そんな「イノセント」な少年少女に
「殺される前に殺せ! 生き延びるために」と言ったらどうなるか。
深作監督は、
そういう少年時代を送ってきた。
大人の言うことを真に受けて、殺しまくった少年達、
それに巻き込まれ、
あっというまに死んでいった子どもたちを、たくさん見ている。
そして
多くの死体をかきわけて生き延びてきた、自分を。
日本という「孤島」で、
生き延びるためなら何でもやった過去を、
彼はこの作品に投影しているのである。
役者としては、川田役・山本太郎の存在感が光る。
人間の「陰」と「陽」、「表」と「裏」を
見事に1人の人間のなかに統合して表し、
ともすれば「殺し合い」だけに目が奪われてしまう流れに
アンカーをしっかりと下ろした。
さて、藤原竜也扮する七原。
彼は、本当に「殺さなかった」か?
確かに、かれは「殺そう」とはしなかった。
友人を助けようとした。
「殺されたくなかった」から「逃げた」し、
「殺されないように」した。
でも結果として、
彼に襲い掛かってくるクラスメイトは、
やはり死んだのだ。
「殺すくらいだったら、死ぬ」の選択は、彼の中にない。
「殺されないように」がんばったのだ。
自分から能動的に人を殺さない人、というのは、
この状況下では稀有な存在かもしれないが、
それは「普通の人」の考えでもある。
私たちが「バトルロワイヤル」を観るときに、
ただ1人でも
「殺したくない」と思って逃げる登場人物がいることで
どれほどほっとできることか。
狂った世界の中の、たった一つの良心。
しかし、
深作監督に
「殺さなかったから、ごほうびに生き残った」みたいな気持ちはない。
「殺さなかった」ことは、決して免罪符にはならない。
生き残ったこと、それ自体が「罪」である。
たとえ「殺さなかった」としても、
結果的に皆は死んでいった。
自分の手は、汚れていないと言えるのか?
戦争を経験した多くの人々が、
「生き残ってしまった」という言葉を口にする。
その重みを、その苦悩を、その虚しさを、
戦争を知らない私たちは、なかなか理解することができない。
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その後、
深作監督は「バトルロワイヤル2」に着手する。
だが時既に遅く、
病魔に蝕まれていた深作氏は、クランク・イン直後に入院、
帰らぬ人となってしまった。
そのため「バトルロワイヤル2」に関しては、
脚本も手掛け、監督をそのまま引き継いだ深作健太氏の作品となっているので、
ここで言及することは避けたい。(未見だし)
ただ、
「1人も殺さなかった」七原が、
事件から3年後「テロリスト」となっているという設定に、
私は「あれ?」と思った。
ドストエフスキーは
「カラマーゾフの兄弟」を2つの物語で完成しようとした。
彼の死によって、後の物語は日の目を見ていないが、
その構想は、作者自身によってこう語られている。
「三男アリョーシャは、13年後、テロリストとなる」
凄惨な父殺しの話の中で、もっとも「殺し」と遠い存在であったアリョーシャ。
信仰篤く、
誰からも好かれていたアリョーシャが、
なぜ「テロリスト」になってしまうのか?
彼の内なる「無垢」は、13年後にどう変質していくはずだったのか?
ドストエフスキーは死んだ。
深作欣ニも死んだ。
今回「カラマーゾフの兄弟」を読んでみて、
改めて「バトルロワイヤル」を思い起こした次第である。
「アリョーシャ役に藤原竜也」と思った深層心理には、
もしかしたら「バトロワ」が関係しているかもしれない。
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