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八月花形歌舞伎第二部「東雲烏恋真似琴」

8月は、旅行することもあり、
なかなか観劇の日取りが難しかった。
3部あるなかで一つだけ見るとしたら。
第三部の「乳房榎」は勘三郎の芸をどう初演の勘太郎が受け継ぐか、
どこまでできるか、あるいはどこが違うかを見たい。
第一部は七之助が「櫓のお七」を初演。これも興味津々。
でも結局、第二部にしました。
1つには、この前見たG2の「リタルダンド」がよかったから。
G2が歌舞伎を作ったらどうなるか、食指が動いた。
それに、歌舞伎の劇評を生業としていたら、
新作を見るのは義務かもしれない、と思ったから。
結果。
福助や橋之助のアドバイスもあり、ということもあってか、
おちついた作劇となっていた。楽しめた。
でも、人形造りに扮する中村獅童だけは、どうしようもなかった。
なんで、彼は「歌舞伎」っぽくないんだろう?
ほかの人は、ちゃんと歌舞伎を演じているのに、
彼はテレビドラマと同じノリである。
一部、そういう息抜きがあるのは面白みもあろうが。
それに、
「テレビドラマ」の役者としても、決して巧みとはいえない演技。
声もつぶれてる。
意味もなく高笑いする。
とぼけた味の弟子を演じた巳之助のほうが、ずっと歌舞伎役者だ。
彼がもっと謎めいて実力がありそうに人形師を演じてくれていたら、
この話、もっとゾクゾクしただろうに。
序盤、「黒蜥蜴」の蝋人形の館チックな見せ場があるんだけれど、
あの人形の一つ一つがどう関わっていくのか??
…と思っていたのに、お話のキーとなる小夜(福助)に生き写し…
…のはず人形は、ほんとに「人形」だった、それもかなりちゃち。
それが途中で福助に変わるから、ものすごく違和感。
お話としての整合性はともかく、
「生き人形」の遣い方は、染五郎主演の「鉤爪」に軍配を上げたい。
そして、小夜の死を信じない夫の新左衛門(橋之助)には福助、
他の人の目には人形、というのを演出としてちゃんとやってほしかった。
せめて人形を写実的にしてくれ。
和紙人形のでっかいのかと思った。
そんな中でもっとも印象的だったのは、
萬次郎扮する新左衛門の母。
家を守るために、人形を妻と信じ込む息子に合わせろ、皆に命ずる。
その滑稽さ、残酷さとともに、
「もうちょっと辛抱してくだされ」と息子を慕うお若(七之助)にかける声の優しさよ!
ことの始まりをつくってしまう、新左衛門の友、
多膳の扇雀もよかった。
彼がもっとも心情わかりやすかった。
多膳の上役に自分の思いものである小夜が身請けされそうになる。
自分の立場を損ねないままこれを回避するため、
女なぞにはまるで縁のない堅物の新左衛門をダシに使い、
「新左衛門こそ小夜の真夫」ということにして身請け話を破談させるはずが、
新左衛門と小夜を夫婦にする、と上役が言い出して仰天。
その上、新左衛門が小夜に本気で恋してしまう。
これに対して福助のお小夜は、人物のキャラが破綻している。
まず、「あんたなんかよりこっちのほうがまことを感じる」と多膳を袖にする。
新左衛門の純真に打たれて自ら夫婦約束にうなずいたというのに、
人形になってから、いきなり邪悪になる。
ここが意味不明。
お小夜ってどういう女性なのか、元がわからないから変化の理由がわからない。
どうせお若に嫉妬するにしても、
もっと「普通の妻になってみたかった」の悲しみを大きく描くとかしないと、
人形ホラーだけの話になっちゃう。
橋之助は、前半が元気がよすぎで早口で、空回りしているように見える。
お小夜を探すところからの後半は引き込まれる。
引き込まれるが、
「このニンは、三津五郎では?」という某氏の呟きに、思わず膝を打つ。
人形と戯れる橋之助は、どこまでも喜劇。
まわりが「狂ったか?」と思うほど、病んで見えない。
気が触れているというより、
自分の寂しさを埋めてくれるものを得て、信じ込んですがる感じ。
もし三津五郎だったら、
たとえそれがちゃちなマネキンだったとしても、
そのマネキン自体に恋してしまうくらいねっちりとセリフを言い、
にぃっと笑い、目を血走らせることだろう。
「出家する」ラストも「ああよかったよかった」みたいな大団円として不足。
というか、この二人がそれほど慕いあっていた感じがしないし、
出家なのに道行きってどうよ?っていう、つまり、もうわけがわからない。
橋之助の快活な新左衛門だったら、目が覚めてお若と祝言、のほうがよくないか?
もし「人形と手に手をとって出家」っていうラストだとしたら、
一度も契りを交わしたことのない「お小夜」じゃなくて
日々を暮らした「人形」にこそ新左衛門は惚れ抜いてしまった、
「人形」のほうも、小夜ではなくて「人形」が彼を慕った、だから
二人は手に手をとって…という道行として成立するかも。
福助は、小夜としての人形ではなく、小夜になぞらえた人形として、
違うキャラクターを演じるべきだったかも。
そうすれば、「お若に負けまい」とする人形として、邪悪もまた一興なり。
そう考えると、
福助のお小夜も破綻してないのかも。
こちらが「お小夜が人形にとりついた」と考えてしまったのが最初の間違い?
人形は人形であり、死んだ小夜とは別の人格(人形格?)。
人形として新左衛門の妻の座を守ろうとする、っていうことか。
そういう目で、もう一度観てみたい。
そのときは、
三津五郎の新左衛門、福助のお小夜、人形師は亀鶴で、お願いします。

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