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Kバレエ「ラ・バヤデール」@オーチャードホール(3)バランス

25日昼公演、宮尾ソロル、佐々部ニキヤ、浅川ガムザッティの回を見ました。
これで3キャスト、4公演目ですが、
私は今回がもっとも自分の思う「ラ・バヤデール」に近かったように思います。
やはり「ラ・バヤデール」は、
ニキヤと拮抗するガムザッティがあって両方が輝く。
浅川のガムザッティは美しく、誇り高く、そして悲しかった。
佐々部ニキヤは、宮尾ソロルへの愛のイノセントで一直線なところが響きました。
一幕二場、ニキヤとガムザッティの直接対決。
自信がないからこそ自らの持てるものを誇示するガムザッティの悲痛さと、
それらをつきつけられても「愛されている」を信じて疑わないニキヤの笑顔。
そんなニキヤがなぜ、ガムザッティにナイフを突きつけるのか。
「イノセント」なニキヤのダークサイドがぱっくり口を開けて出てくる。
そのことに、ニキヤ自身が一番驚いてうろたえる。
ここが佐々部はうまかった。その前の「イノセント」が強いだけに、うまく演じられた。
浅川ガムザッティも、
しばらくは顔を上げずにいる。
恋敵がどうのこうのではなく、(そのくらいはお金でカタをつけようとしていた)
おそらく人生で初めて「はむかわれた」それも「刃物つきつけられて」というショックが
ガムザッティの背中からにじみ出た。
だから、幕切れの「こ・ろ・し・て・や・る」がほんとにコワかった!
ただの痴話げんかじゃなくなった。
宮尾ソロルは、ほんとうに立ち居振る舞いが大きくて、惚れ惚れしました。
戦士ソロルの雄々しさが端々からみなぎっていた。
ジャンプも大きくて。
ただし、一幕三場のソロだけは、いただけませんでしたが。二幕はよかっただけに残念。
この日のブロンズ・アイドルは井澤くん。
うーん、20日の舞には及びませんでした。
つくづく、この踊りだけで全観衆をトリコにした熊川ブロンズアイドルの凄さを思い知った。
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さて、
ここまで一言も書いていなかった荒井ニキヤについて。
存在感もあるし、美しいししなやかだし。
でも、ニキヤに対する共感というか、応援したい気持ちのようなものが
正直出なかった。
19日、彼女がソロルとガムザッティの結婚式で踊った踊りは、
「恨み」に満ちていた。
この「わたし恨みます」節は、ちょっとニキヤっぽくなかった。
20日は、同じ踊りでありながらも少し力が抜けて
「悲しみの踊り」とはなっていたが。
花籠をもらってからはリズムに乗って軽やかな踊りが見られたし、
佐々部の踊りと比較すると、
自らの身体をいかに自在に、厳しく、柔軟に使っているかがわかる。
わかるけれど、
「奈落の底で絶望にうちひしがれる」ほどのニキヤの心根は見えなかった。
それは、浅川、佐々部についても不満に思ったことだ。
蛇にかまれて「あんたがやったのね!」みたいなマイムは、必要なのだろうか。
ニキヤはもっと違うものに絶望している。
踊り子はマハラジャの娘には勝てない。
その絶望なのである。
「勝てないけれど、ほんとうはソロルが好きなのは私」。
これだけが、よすがである。
だから、花籠がうれしい。
だから、ガムザッティと手をとって去っていくソロルがとどめになる。
自分の運命を感じながら美しく舞うニキヤは、
さながら義経を討った頼朝の前で踊る静御前である。
舞の中に、ないまぜになった愛と哀しみをくぐもらせて敵をも感動させる。
そんな舞を、
今回はどのニキヤからも感じられなかった。
荒井については、
二幕で長いベールを持って踊るパ・ド・ドゥでも衰えを感じた。
ここはニキヤの見せ場だが、
彼女は逆回転のピルエットを二度ともバランスを崩している。
浅川も佐々部も軽やかにこなしているから、
なおさら際立ってしまったかもしれない。
考えてみれば、最初はキャスト入りしていなかった荒井。
熊川登板の女房役として急遽、だったわけだから、
本人としても十分な準備はできなかったのかもしれない。
大好きな荒井だから、ちょっと割り引いて考えてしまった。
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もう一点、
この「ラ・バヤデール」でどうしても不満なことがある。
それが大僧正(ハイ・ブラーミン)の扱いだ。
あのロイヤルの、ダウエルの、ものすごい存在感の大僧正を知っている人なら、
どうしたって大僧正に注目するよね。
それでもって、今回は、そのロイヤルにいたスチュワート・キャシディが配役!
だから、ものすごく期待していた。
ところが…。
なんて卑小なエロ坊主になっちゃってるんだ?
こんな役だったっけ?
神や仏に仕える者の重鎮としての大僧正が描かれていない。
あれじゃ、「きれいどころはみんなオレの女じゃ~!」みたいな生臭坊主でしょ。
「オレよりソロルがいいなんて許せん!」一点張りだし。
彼にだって、「神様より女が好きになってしまった!」という葛藤もあるべきだし、
ニキヤが自分を拒否するのは「神のしもべの踊り子だから」で納得していたのを
ソロルが出てきてかっさらうから、自分のことはさておいて「神への冒涜」で怒るし。
そういうのがどこかから薫ってこないと、ほんとに愚僧にしか見えない。
僧たちや苦行僧や踊り子たちを従えていても、
ただの権威の権化であって、一番上の人としてリスペクトされるだけの品格が見えない。
それでは、「女に迷ってしまった!」と聖人が煩悩に焼かれるギャップも生まれないのですよ。
だから、
大僧正よりガムザッティのお父さんのほうが、(悪いヤツだけど)ずっと共感できる。
でも、
これはキャシディのせいだけではないと私は思う。
カーテンコールで、大僧正は一人で出てこない。
ガムパパと2人で出てくる。
熊川バージョンでは、大僧正はそれほど重要な人物ではないということだ。
なぜ最後に寺院は崩落するのか。
なぜ白い蛇はガムザッティにかみつくのか。
大僧正が頭に戴く冠には、なぜ蛇がまきついている文様があるのか。
恋の三角関係はわかりやすいかもしれないけれど、
それだけでは語りきれないものが「ラ・バヤデール」にはある。
熊川バージョンは、
「今までとは異なるものに」が勝ちすぎて、
明快な一本の線が引けないまま、世俗に寄り過ぎたように思う。

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