市村正親のマクベスを見たくてチケットを取りました。
が、私が観た回は多少精彩を欠いていたように思います。
市村さんはセリフが単調で、
早口でセリフをこなすのに精いっぱいな感じ。
初日からまもないからでしょうか。
マグダフ役の吉田鋼太郎のほうが、存在感がありました。
それは「共感できるか、できないか」なのだと思います。
マグダフは誠実だし、言ってることが正論だから、
感情移入しやすいのです。
マクベスという人物は、ただでさえ考えや行動が性急すぎ、道義にもとる。
それでも主人公として成立しうる魅力、あるいは魔力のようなものが
マクベスに見えなければ、観客の心は主人公から離れるばかりです。
いつもであれば、どんな登場人物の「矛盾」も「欠陥」も
いったん市村さんが料理してしまえば魅力的になるはずなのに…。
残念でした。
「NINAGAWAマクベス」という1980年の演出の再演については、
いろいろと考えさせられました。
彼の「洋ものを和のテイストで」の原点としてのリスペクトはある。
仏壇の扉の向こうに繰り広げられる光景の美しさには目を見張る。
魔女の踊りに仏教の声明どころかキリスト教の讃歌がかぶるところも意義がある。
しかし、
シェイクスピアの翻案という意味では黒澤明の「蜘蛛ノ巣城」に、
時期的に先駆けるものでもないし、迫力でも美しさでも及ばない。
質的にも、私は疑問を感じるところがいくつもあった。
誤解を恐れずに言うと、
この「NINAGAWAマクベス」は、その様式において、マクベスの歌舞伎化なのだ。
歌舞伎には様式があり、歌舞伎役者には基礎がある。
おそらく1980年の初演時には、歌舞伎のような様式美を支える基礎的な力が
出演者全体にあったのだと想像する。
あのころ、
時代劇はテレビでもたくさん放送されていたし、
その前の時代劇映画全盛のころを知っている俳優さんたちがこれまたたくさんいた。
俳優でない私でさえ、それを「見る」目は養われていたくらいだから、
「質」はそういう「過去の遺産」によって担保されていたのだと思う。
2015年の現在。
同じことをしても、同じようにおさまらない演技がそこにある。
いくら武士の恰好をしても、武士のたたずまいを知らない人間に武士役は務まらない。
いや、武士じゃなくてイギリスの兵士なんで、っていうなら、武士の恰好をする必要がない。
伝令の立ち居振る舞いから口上、入城する武士たちの仕草、
ベースのない人間の無駄な動きや滑舌の悪さによって、すべてが台無しになる。
そのなかで、
もっとも印象に残ったのは、
田中裕子のマクベス夫人でした。
たしかな科白術、身体能力、
彼女は、
別に歌舞伎調に台詞を吐くわけでもないけれど、
マクベス夫人として超越してそこに存在し、光り輝きました。
夫マクベスを出世させたい気持ち、
夫の気弱なところ、それを支えるところ、
気丈であっても内なる恐怖には打ち勝てぬところ、
しかし「マクベス夫人」らしく恐れるところ・・・。
「マクベス夫人」として一貫しながら、ほころびから心情に変化をきたすところに
大いに共感し、納得できました。
その上、打掛を翻すときの裾さばき、腰をかがめて挨拶するときの膝の曲げ方、
くまなく所作がいきとどき、流れるごとし!
そうかと思えば、大胆に脚を開いて、すべての様式を一瞬にして打ち壊す
和の所作と洋の動作の見事なチェンジ・オブ・ペース!
「まれ」で能登のおばあちゃんやってる人と同一人物とは思えない!
「ペリクリーズ」でも「藪原検校」のときも思ったけれど、
この人は作品に合わせて別人になれる人なんだなー。
蜷川さんがやってほしいことを一番呑み込んで形にしていたのは、
田中さんだと思います。
ただ、舞台は水ものですからねー。
公演は10月3日まで1カ月あります。これからどんどんよくなることでしょう。
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