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「リア王」(彩の国さいたま劇場)

私が最初に「リア王」を通しで見たのは、
やはりここさいたま彩の国劇場、
同じ蜷川幸雄が演出したRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)の「リア王」だった。
道化役で、真田広之が客演している。
「日本人だけでやるリア王」に意欲を燃やしていた蜷川。
英語か日本語か、という違いはもちろんあるけれど、
私は今回の「リア王」が、心にしみた。
お追従がいえない末娘コーディリア(内山理名)に向かって
「そんなに幼くて、そんなにかたくななのか?」というリア(平幹二郎)のセリフには、
(ただまっすぐなだけでは、この世など渡っていけぬわ!)という、
娘を気遣う心を感じた。
王の愚かな決断を撤回させようと必死で諌めるケント公(嵯川哲朗)の言葉には、
真実と愛情があふれていた。
結局は父王を疎み、捨ててしまう冷酷な娘たちとして描かれるゴネリルとリーガンにも
それなりの「わけ」があるように感じられた。
今までコーディリアばかりを可愛がってきた父、そして可愛がられてきたコーディリアに
長い年月をかけて鬱屈してきた愛情の裏返し。
ゴネリルの銀粉蝶は文句なし。
父王がまくしたてる聞くもおぞましい自分への悪態。
それを胸を張って黙って聞きながら、結んだ唇は小刻みに震えている。
彼女の矜持の高さと同時に、愛に飢えた哀しさとが見えた。
リーガン役のとよた真帆は、失礼ながら予想以上の出来。
声も通る、表情も自在。
「40歳になってシェイクスピアを演じる」ことを自分のターニングポイントととらえ、
シェイクスピアの作品をすべて読んだという。
舞台栄えのする美貌と長身。これからの活躍を期待する。
もう一人、エドマンドの池内博之もよかった。
オセローにおいてのイアーゴのような役だが、自分の内心を吐露する場面に説得力がある。
特に「人間、ここまで馬鹿になれるのか!」と
自分のウソにだまされて長子エドガーを疑ってかかる父親のグロスター公(吉田鋼太郎)を
裏であざけるところがいい。
不幸になったら全部星(星座占い)のせいにするつもりか?とたたみかけ、
「ふざけるな!(たとえ私生児である自分が生れた時が、清らかな星の下だったとしても)
 俺は今の俺だったさ!」とすごみながらも泣き崩れるところは、胸を打つ。
ゴネリルをたらしこむところも色気たっぷり。
彼にもたくさんの舞台を踏んでほしい。
リア王というと、「娘に邪険にされた老いた王さまの話」と思われがちだが、
サイドストーリーとしてのグロスター公と2人の息子(エドガー、エドマンド)の話が
実は非常に重みを持っている。
RSCの「リア王」を見たとき、エドガーという役がこんなに重要とは思っていなかったので、
とても印象が深かった。
(配役はハムレット役者として有名なマイケル・マローニー。惹きつけられた)
今回は、高橋洋がエドガーだ。
「乞食のトム」に身をやつした場面では、ボロ布一枚巻きつけて終始内股の爪先立ち、
その役への入り込みようはものすごいものがあった。
後半のエドガーに対をなす、前半の道化(山崎一)は、
少し毒が強すぎた感がある。
その鋭い「批判」の数々も、「道化」だから許されるのではなく、
「道化」が「愚かさ・軽薄さ」に毒を隠しこむからこそ許されているはず。
その「軽さ」が影をひそめてしまった。
秀逸だったのは、グロスター公の吉田鋼太郎である。
特に両の目をえぐられて放浪してから後の、後悔と嘆きの一つひとつは、
実の息子に騙されてもう一人の実の息子を追放してしまった自分の罪を背負った父親の気持ちを
劇的であると同時に丁寧に表現して涙を誘う。
リアが
「しまった!」と思いながらも自分の過ちをなかなか認められずに虚勢を張っているのに対し、
グロスターは
すべてを悟った後、自分の行いを恥じ、ただエドガーの幸福だけを願った。
リアが80代であるのに対し、グロースターは60代くらいか。
その差がうまく描かれていた。
平は、「老い」の演技が巧みだった。
「リアがこんな歩き方をするか? こんな喋り方をするか? リアの目はどこだ?」
気づいたら「これが自分」というイメージより、ずっと自分が老いぼれていた。
「こんなのは自分じゃない!」と愕然とするリアに、ドキッとする。
放浪の果て、コーディリア(内山理名)と再会したリア。
「私は惚けた愚かな老いぼれだ…(中略)…ゆうべどこに泊ったかも覚えがない。
 というのはな、このご婦人が、娘のコーディリアとしか思えないのだ」
「そうです、コーディリアです!」
この場面は、泣けた。
ただ書いてあるものを読んだって、全然泣けない。
平幹二郎が言い放つ、そのセリフの抑揚、間合い、
ひょっとして、という希望と、そう思ってはならない、という絶望と、
自分がしでかした罪の大きさを抱えきれず、無力になった自分の弱さをようやく受け入れた男。
そんなすべてが注ぎ込まれているからこそ、美しく、感動に包まれる。
2人がここで出会って、心通じ合うことができて、
よかった!と思う。
最後の最後まで、次から次へと不幸が重なる話だけれど、
時々笑いが漏れもする。
その緩急が、また素晴らしい。
無力で大人しく、猛女ゴネリルの尻に敷かれっぱなしの夫、
マスオさん的存在のオールバニー伯爵が、どんどん「意志の人」となっていくのを
渕野俊太が好演。
最後、リーガンに色目を使うところまであって、笑えた。
馬もよかった。
コーディリアが乗っていた馬は、一瞬「本物??」と見まごうほど。
足を見ると人間が2人入っているのは確実なのだが、
不機嫌に手綱を嫌う顔(もちろん馬の被り物。非常に精巧)の動かし方など、芸が細かい。
馬の顔と、脚と、何度も見比べてしまうほどだった。
その馬に乗っていたコーディリアの内山理名。
蜷川のインタビューからわかることだが、
今回のコーディリアはただただ「まっすぐで純粋な処女」のイメージではなく
「老いに対する想像力がない、若者特有の傲慢さ」をも併せ持つ。
だから、
冒頭の印象が柔かくないのは、演出に応えた形だろう。
しかし、終盤、コーディリアの出番が多くなってくると、セリフのもたつきが目立ってくる。
コーディリアのなきがらに向かってリアが言う。
「こいつの声はいつもおだやかで、優しく、静かだった。女の何よりの美点だ」
そういうコーディリアだったか?
彼女が自分の愛情から父王に語りかけるとき、
そこに「おだやかで、優しく、静か」で、ゴネリルやリーガンとは違うものが
(男の幻想かもしれないけど)これぞ女だ、という美しさが
やはりなくてはならなかったのではないだろうか。
そこが、ちょっと残念。
「リア王」は、人生を重ねてきた人にしかわからないものが
たくさんつまっているような気がした。
私が、歳をとっただけかもしれないけどね。
埼玉県の与野本町・彩の国さいたま芸術劇場では、2月5日まで。
その後、大阪の梅田芸術劇場に行きます。
どうしようかなー、と迷っている人、
絶対、観に行った方がいいですよ!

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