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「双頭の鷲」(2)

昨日も書きましたが、
この「双頭の鷲」は、ジャン・コクトーが書いた戯曲です。
フランスの戯曲であり、
美輪明宏もパンフレットの中で「擬古的演劇」と言っているように、
現代に作られてはいますが、
フランス演劇の伝統を色濃く残しています。
(そういうところも、三島文学と似ていますね)
まず、3日の出来事を、3幕で表すという形式が、
三一致の法則(*)の片鱗を垣間見せる。
一日のうちのある時間帯だけを切り取って、
その前後のいきさつは、セリフの中にこめてしまうから、
どうしたって説明口調になってしまうのは否めない。
そして、その長セリフが
一筋縄ではいかない代物。
ジャン・マレー主演映画の字幕版を見ていると、
たたみかけるようにしゃべりまくる王妃のセリフは、
まさに、
ラシーヌの「フェードル」などを思い出させるような
迫力と情念が渦巻いています。
ものすごーく言葉のトーンが詩的かつ攻撃的。
こういうところは、
美輪さんの舞台を観ているだけではわからなかった。
美輪さんは、
ある時は王妃の威厳をもって、
ある時は娘のかわいらしさを感じさせ、
非常に朗々と長セリフを歌い上げて気持ちいいけれど、
そこは日本人だから、
鼻濁音っていうか、印象がやわらかいんです。
映画は1時間半、舞台は3時間。
きめ細かい演出とストーリーテリングという意味では、
美輪さんの舞台の勝ち。
もう一つ、
王妃が「死」を望んでいる気持ちがとてもよく伝わったところも、
美輪さんの舞台では出色。
第一幕、スタニスラスが刺客としてやってきたとき、
ようやく自分にふさわしい「死」が来た、と大きく微笑む、
その武者震いが匂い立つような高揚感が素晴らしかった。
ここが説得力を持ったから、
美輪さんの王妃は
「ただの色狂い」じゃなくなったといっても過言ではない。
しかし、
嵐の中、スタニスラスが最初に窓際に姿を現したときの
王妃(エドウィージュ・フィエール)の驚きようは、映画の勝ち。
大声で「フレデリック!」と叫ぶのです。
それまで、想像のフレデリック(亡き王)と戯れていた王妃の目には、
本当にフレデリックが現われた!と思ったんだな、という衝撃を、
エドウィージュはとてもよく表現していた。
美輪さんは、どちらかというと、「息をのむ」感じでした。
(叫んでたかもしれないけど、
 スタニスラスに対して、というより、
 今まで語り合っていた幻に対して
「どうしましょう!アナタ助けて!」みたいに感じた)
それから、
王妃とスタニスラスとの恋が、ものすごく肉感的だったところも、
映画ならではの魅力でした。
美輪さんは、「どうして二人は惹かれあったか」を丁寧に演出しているけれど、
結局は王妃と平民の、
秘密で非日常な出会いが男と女の関係をいよいよ燃え上がらせた!
・・・という、リクツなしの激しい恋だったわけで。
・スタニスラスは10年前のフレデリックに瓜二つだった
・王妃は10年間、若い男と向き合ってない
・王妃はものすごい美人
・スタニスラスはコンプレックスもあり、貴婦人への憧れが強かった
・その貴婦人、それも美人の王妃に愛されて舞い上がるのは当然。
そのあたりが、映画は気持ちいいほどストレート。
王妃は誘う、スタニスラスはむしゃぶりつく、みたいな。
ここまでリクツなしの本能的な恋だからこそ、
ラスト、王妃が本心を隠して辛くあたったりすると、
スタニスラスは覚悟が揺らいでしまうのよね。
「(ただのアソビだったなんて)うそだ!」とかいいつつ、
そこはたった3日間しか愛し合ってない二人だもの。
お互いの気持ちが計りかねてもしかたないよねって思えるの。
一方、美輪さんの舞台は作りこんでしまった分、
「こんなに深く結びついているのに、どうしてこの男は・・・?」
・・・みたいに感じちゃうんだよね。
最初に言ったことと矛盾するかもしれないけど、
未亡人として10年封印してきた「女」が一気に解放されてしまった
映画の王妃の、「美しき色狂い」が、かえって清清しかった。
どっちにしろ、
ひと目で恋に落ち、二日目に盛り上がり、3日目に破綻する恋なんですから。
スタニスラス役の木村彰吾、
声がいいので舞台ばえしないわけではない。
がんばっているんだけど、いかんせん、身振りが・・・。
ラジオ体操のような動き、何とかならないものか。
手を広げて階段の上に立ち、王妃の輝ける未来を叫ぶんですが、
どう見たって「てーのひらを、たいように~♪」のノリ。
小学生の学芸会をほうふつとさせます。
こういうところは、
宝塚の男役などを研究して、
しなやかで、色気があって、かつ男らしい大きさを感じる
本当は作りこんでいるんだけど、自然体にみえる身のこなしを
ぜひ身につけてもらいたい。
声は太くてよく聞こえるし、嫌いじゃないです。でも、
そのいい声がわざわいするのか、
スタニスラスって、どんな出自なのか、わかりにくい。
平民らしさがないというか、
堂々としすぎて「貴族です」で通っちゃいそう。
その点、ジャン・マレーはうまかった。
王妃とはもう男女の仲だから、上になったり下になったり(ヘンな意味じゃなく)。
でも、
他の貴族たちと話す時は、どこかおどおどっていうか、
あまり抵抗しない。
ちょっとしたところにお里が知れる、そういう繊細さがリアルだった。
木村彰吾をジャン・マレーと比べるっていうのは、
たしかにちょっとかわいそうな気もしますが、
せめて高嶋政宏で見たかった、というのが、私の本音。
以前、麻実れいと堤真一でもやっていたらしく、
これも見てみたかったカップルだなー。
脇役で存在感を見せていたのが、長谷川初範。
警視総監・フォエン公爵の人柄のいやらしさを、
非常に見事に演じていた。
ふんぞりかえって、ニヤニヤしながら人をおとしいれる恐ろしさ。
ある時は慇懃に、ある時は居丈高に。
うまい役者さんだ。
皇太后のスパイとして王妃に使えるエデットの夏木静子は、
「無能さ」「薄っぺらさ」を強調しすぎたのではないか。
美輪はエディットを公爵令嬢から男爵令嬢にわざわざ身分を落として描いているから、
夏木1人の問題ではないと思うけれど。
たしかに王妃は彼女をバカにしている。
でも実際は王妃も彼女にバカにされている部分があるし、
舞台には一度も出てこない「皇太后」の大きさを、
エディットが背負っているのだから、
もっと底のしれない女性の方が、よかった気がする。
演じようによっては、王妃を食ってしまうことだってできる役なのに、
そして、
その片鱗が時々見えただけに、もったいなかった。

*三一致の法則*
古代ギリシア演劇では、人間は時間や空間を飛躍する物語にはついていけないとされ、
舞台の話は1日24時間以内に起こる出来事しかしてはいけなかったし、
場所もあちこちにとんではいけなかった。
だから、戦場から帰ってきた兵士が宮廷で状況を報告するなどの形をとり、
登場人物に過去のいきさつを語らせて話にふくらみを持たせた。

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