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「卒業」~ミセス・ロビンソンの憂鬱

「卒業」といえば、サイモン&ガーファンクル。
持ってます、サウンドトラックLP。
「サウンド・オフ・サイレンス」「スカボロウ・フェア」など、
名曲ばかり。ていうか、ぜーんぶ名曲。
どちらかというと、詩的・幻想的で、
晦渋とさえ言える文学の薫り高い作品が並ぶ中、
LPのA面1曲目は「ミセス・ロビンソン」。
“選曲”機能も“シャッフル”機能もなかったアナログ時代、
LPは曲順もふくめてアートであり、メッセージであった。
だから、
1曲目が「ミセス・ロビンソン」である重要性に、
ちゃんと気づかなければいけなかったのだが・・・。
若いというより、幼かった私には、
そんなことを考えるベースがなかった。
自分の娘と同じくらいの男をけだるい「命令」で誘惑し、
「娘のエレーンには会わないで」とわがままを言い、
「会ったら全部バラす」と脅す人妻は、同じ女として醜く、
一つも感情移入できない登場人物だった。
考えてみれば、
母親と不倫したことを娘にバーっと告白して、
「それでもボクはキミが好き、だから結婚しよう」という男・ベンジャミンのほうが、
数倍オカシイ。
その上結婚式で、(それも新郎新婦はキスしてるから、もう誓いも済んでるのに)
いきなり新婦を略奪してしまうわけで、
ジョーシキで考えれば、
こんな男と一緒になったって、娘が幸せになれると思える親はいないだろう。
大体、就職もしてないんだよ。
それで駆け落ちしようってんだからねー。
でも、昔見たときは、それなりに爽快。
自分を貫く、愛を貫く、好きな人と一緒になる。
これは、正義だ。
「まるくおさまる」が最優先のオトナ社会より、
ずっと理解できていたような気がする。
昨日深夜、ふとつけたテレビで見た「卒業」。
何十年ぶりかで再び見てみると、
印象がまるで違った。
大学を卒業する今になって、自分の進路を決めかね、
自分で自分をもてあましつつただプールに漂うベンジャミンをみていると、
思わず自分の息子と重ねて見てしまう。
1960年代の日本には「モラトリアム」も「ニート」もなくて、
こんな「いいご身分」な青年はいなかった。
アメリカでだって、
プールつきの自宅に住んでるようなお金持ちくらいだったろうけれど。
今は日本の若者には、
そのリッチさはわからなくても、
ベンジャミンの不安と焦燥はきっと理解できるだろう。
そして、
私の衝撃は「ミセス・ロビンソン」である。
ベンジャミンとホテルで逢引を重ねるようになって1ヶ月、
会っている間はほとんど会話をせず「あれ」ばかりの関係が物足りず、
「何か話をしよう」とせがむベンジャミン。
当初、話すことなどなにもない、と拒んでいたロビンソン夫人が、
途中で折れる。
「いいわ。話しましょう」
「何について話す?」
「芸術について」
「いいね。芸術の何を?」
「何もないわ」
「だって話そうって言ったのはあなただよ」
ベンジャミンは話題を変え、
夫人のことを根掘り葉堀り尋ねる。
「だんなさんと会ったのはいつ?」
「大学の時? なんで結婚したの?」
「結婚しなくちゃならないことが起きたの?」
「大学の専攻は、何だったの?」
「・・・芸術」
「芸術? でもさっき・・・そうか、もう興味がなくなったんだね」
ちがーう!
ベンジャミン、それは違うよ!
芸術を勉強していた彼女は、
いわゆるデキ婚で、学業を捨てざるをえなかった。
自分の抱いていた自分の未来は、すべて消え去った。
愛する娘は一方で、自分の夢を喰らった悪魔でもある。
人の好い夫に悪気はないが、
専業主婦の彼女の生活には、一つも「自分らしさ」がなかったのだ。
「私は最低な女。酒飲みで、色狂いで」と自嘲しながらも、
戯れに誘ったはずのベンジャミンと話したいことは
「芸術(アート)」。
夫とは、そんな話はできないのだ。
娘はそろそろ自立する。
夫とは、随分前から寝室が別。
じゃ、私の役割は?
何のために私はあのとき「芸術」をもぎとられたの?
お金持ちのうちの専業主婦だ。
端から見れば、うらやましすぎる生活。
何が不満なの?って思う。
でも。
彼女の目は絶望している。
年上で、お金があって、経験豊かで・・・。
今までずっとベンジャミンを支配していたはずの自分が、
やがて彼に捨てられるだろうことを予感して、
彼女は「娘に会わないで」と「命令」する。
自分の権力に、まだ効力があってくれ、と祈りながら。
一方で自分が捨てられることを恐れ、
もう一方で、娘が「恋」におぼれることをも恐れている。
(私と同じ轍は踏まないで!)
そんな叫びが聞こえるようだ。
結婚式を飛び出そうとする娘をぶっ叩きながら、
ロビンソン夫人は叫ぶ。
「もう遅いのよ! もう、遅いのよ!」
叫びながら、彼女は微笑んでいるようにも見える。
とっても違和感のあるシーンだ。
何が遅いんだろう。
「もう遅い」のは、娘ではなくて、自分?
好き勝手し放題の娘を思いっきり叩く母親。
そのジレンマ、そのフラストレーションは、
自分自身を非難する代わりに娘に向いてしまったものなのか。
娘が結婚するまでは「仮面夫婦夫を演じたロビンソン夫妻も、
式が終われば離婚する。
彼女の不倫がおもな原因だ。
金持ちの家から一文無しでたたき出されるのかな。
これで、夫が昔からちょくちょく女作ってたりでもしてたら、
もう許さないよ、私!
誰にも理解されない、ミセス・ロビンソンの憂鬱。
今なら、わかる。
私には、わかる。
若いときは、
「バスに乗った若い二人」がこれからどうなるのかが気が気じゃなかった。
今回は、
娘が違う男と出奔した、それも、式場から。その後始末が気になる。
「お前のせいだ」と、ダンナは怒り狂うだろうな。
ロビンソン夫人、大丈夫だろうか。
だから、サイモン&ガーファンクルは歌うんだ。
「天国は、祈る人すべてに開かれているんですよ」と。
これは、ミセス・ロビンソンの物語。
彼女の孤独と絶望を、瞳の奥にたたえながら、
絶対に背筋をかがめることなく生きるロビンソン夫人を
アン・バンクロフトが好演。
機会があれば、是非ご覧ください。

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