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宙組「ベルサイユのばら(オスカル編)」@東京宝塚劇場【追記あり】

週刊マーガレットに連載している頃から、
「ベルサイユのばら」を読んでいた世代である。
映画(洋画)も観に行ったし。
でも、
宝塚は一度も、ナマで見たことがなかった。
(テレビで劇場中継は何度か見ている)
今回、知人がどうしても行けなくなり、
泣く泣く手放すというので代わりに行ってまいりました!
いろいろな意味で、メルクマール的な公演だと思います。
今回主役のオスカルを演じている凰稀(おうき)かなめは、
今年11月の公演をもって退団することが決まっている。
宙組の次期トップと目される朝夏まなとはアンドレ役(緒月遠麻とダブルキャスト)だ。
まずアンドレ役の朝夏まなとが歌で魅せる。
正調ヅカ節というか、
男役トップにふさわしい歌声だ。
滑舌、艶、そして感情表現の豊かさ。
歌い方を歌詞やメロディーに沿って変えていかれるので、
キャラクターを魅力あるものにする。
ちょっとした一節に
オスカルに対する愛情の深さや、
結ばれるはずもない身分の差に対する絶望などが織り込まれ、
だから
「千の言葉が必要か?」の科白には感涙してしまった!
そうだよね、
こんなにオスカルのこと、好きだもんね。って。
それに対してかなめオスカル。
前半、私はちょっと首をかしげていた。
私のイメージするオスカルとちょっと違うのだ。
ところが・・・・・・!
その印象は、終盤になってものの見事にひっくり返されていく。
そうだ、これこそがオスカルだ!・・・と。
恐るべし、凰稀かなめ!
前半と後半で、オスカルの心理状態がまったく変わることを、
彼女は見逃していないのである。
分水嶺は、アンドレと結ばれる夜。
それまでのオスカルは、「男として生きる女」「武人として育てられた女」。
「女であること」は自分にとって、あるいは周囲にとって、オスカルの弱点だった。
「女だから」「女のくせに」「だから女は」と言われないために、
オスカルは、どれだけ自分を律して生きてきただろう。
「オスカルは信念の人です」と、衛兵隊員は言う。
「あなたはどうしてそんなに無理をしていて生きるのか」とジェロ―デルは言う。
ありのままに、など生きられるはずがない。
女が男として育てられたのだから。
アンドレが男同志ではなく、男と女としてオスカルを抱き
オスカルもアンドレを友人ではなく恋人として受け入れたその夜、
オスカルは、
「男として育てられた自分を肯定しながら、女としても幸せになれた」ことで、
底知れない強さを持った。
バスティーユを落とす市民の楯となって
胸の勲章を自らはぎ取ったオスカルの凛々しさは、
まさに
「女として生まれ」「男として育ち」「人間として死ぬ」彼女の魂の発露である。
こうして思い出すだけでも涙があふれてくるほど、
精神を解放されたオスカルを演じた凰稀かなめの迫真は、震えるほど感動的だった。
必死で男を演じていた前半のオスカルがどこかなよなよしく、
大声で人を圧しても、どこかヒステリックだったのが、
心の底から自分のありかを知った人間の強さが示す声は、
男とか女を越えて空気を揺るがし、遠くまで轟き響くのである。
前半、「フランスの栄光を取り戻す」は頭で考えた理想にすぎなかった。
終盤、
愛するアンドレの死体を越え、ほんとうにマルス(軍神)となったオスカルは
自分とアンドレを隔てた理不尽さを正すため、
アンドレの妻として、本物のシトワイエンヌになって、闘ったのだ。
そんな今回の「ベルばら」を堪能しながら、
これも時代だなー、と妙に納得した。
1970年代、
私たち乙女は、オスカルのかっこよさにひたすら感じ入ったものだ。
「女らしく」を強制されない女性が、
職業軍人として男より強く、正しく、凛々しいことが、
同じ女として誇らしかった。
「ベルサイユのばら」とは、オスカルのことだと思っていたら、
実はマリー・アントワネットのことで、
池田理代子は彼女のことを書きたかったという話を聞いて
「へえー」と感じるほど、
アントワネットはそれほど魅力的には思えなかった。
でも、年齢が上がると、
アントワネットの気持ちもわかるようになり、
今では「ベルサイユのばら」はアントワネット以外には考えられない。
かつて私たちが憧れたオスカルは、
アンドレと結ばれた夜から急に女になった。
そこがちょっと許せなかった。
今までフランス一国のことを考えていたのに、
急にアンドレという男一人が大事になってしまって
なんだか人物の器が小さくなってしまったように思えたものだ。
「結局、女は抱かれるとこうなっちゃう」って言われてるみたいで、
憮然とした記憶がある。
だからこそ、
今回の凰稀かなめのオスカルは、
後味がとってもよかった!
これまでのオスカル像とは一線を画す、画期的な人物造形である。
宝塚の「ベルばら」は1974年の初演から今回まで、16公演を数える。
そこでオスカルを、アンドレを、アントワネットを演じた多くの人が、
今でも活躍している。
「オスカルとアンドレ編」あり、「アンドレとオスカル編」あり、
「アントワネットとフェルゼン編」あり「フェルゼン編」ありの、
「オスカル編」なのだ。
宝塚は時代の波をつかみ、あるは先取りしながら、
王道を守りつつマイナーチェンジを繰り返して
伝統と現代性とを両立させている。
「願わくば歌舞伎のように、朝から晩まで通し狂言として
『ベルサイユのばら』を上演出来たらどんなに素晴らしいでしょう」と
演出の谷正純はプログラムで書いているけれど、
もうすでに、これは歌舞伎でしょう、と私は思う。
どんなお話なのか、最初から最後までをみな知っている。
知っているうえで、今回は「この場面」を見に来た。
そこで歌われるあの歌、この歌は、絶対変わらない。
でも、誰が演じるかで、ちょっとずつ雰囲気が変わる。
その上、片方の性のみで両性を演じるのも同じ。
銀橋も、よくできた花道だと感服した。
私は2階からの観劇だったが、
花道がタテなのに対し、銀橋はヨコ。見切れというものがない。
観客本位のサービス精神や工夫も、歌舞伎と同じ。伝統だなー、と思った。
ということで。
いろいろと感じ入ることの多い、「ベルばら」でした。

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