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新浄瑠璃「百鬼丸」@サザンシアター

新宿サザンシアターでやっている「百鬼丸」
「百鬼丸」は五年ぶりの再演ということで、
初演のメンバーとともに、
「5年前は研究生だった」という新メンバーも
先輩たちに追いつけ追い越せ、とばかりに熱演。
いい役者が揃っています。
とくにどろろをやった山中崇史(「相棒」に出てる)はすごい。
あと、白眼童子(魔物の親分で、百鬼丸の父親と取引した人)の岡森諦。
彼も、大河ドラマの「風林火山」なんかに出てました。
岡森と同じく旗揚げメンバーで作家の横内謙介(今回の脚本も担当)が、
スーパー歌舞伎で猿之助さんと組んでいるご縁かもしれませんね。
「研究生」というシステムによってなのか、
基礎がとてもできています。
発声、体の動き、表情の豊かさ、感情表現の細やかさ。
シリアスな話の中に、ふっと笑いをいれる間合いも絶妙。
粒の揃った「素材」が
横内謙介という芝居頭脳によって思う存分力を引き出されている感じです。
とにかく、所作がキビキビしている。動作俊敏。ムダな動きなし。
声は通るし。ひそひそ声でも聞こえるし。
舞台を愛し、精進している劇団だっていうことがよくわかりました。
そうでなければ
竹本葵太夫という本物の歌舞伎義太夫の太夫の浄瑠璃を流したって、
ちっとも感動しなかったはず。
よく合います。
「浄瑠璃はまず心」という太夫のおしえを胸に、
浄瑠璃が持つ情念を、形にしている。
ちょんまげもなく、ジーンズだったりTシャツだりしても、
心は戦国時代。
役者の「心」がそれを演じ、
観客の「心」がそれを見ているんですね。
演劇の自由さってその想像力だと思う。
マンガを舞台化するときに、そぎ落とすものと膨らませるものの取捨選択が
優れていた証拠です。
どろろの話を「48の魔物を退治する」ところに主眼をおかず、
百鬼丸の成長譚としてとらえ、
体のすべてを奪われながら、ただ一つ奪われなかった「心」が
それも涼しげで、純粋で、素晴らしい「心」が、
「血=煮えたぎるほどの熱さ=憎しみ」を得た途端に体から乖離する、という
この転換が本当に見事。
また、妻子を戦争で亡くして泥棒になった、という設定にしたどろろが
裏切られ続ける百鬼丸に対し
「人間は痛い、苦しいに耐えられない。
 心はあっても体がつらいとどうしようもなくなる。
 そういうものだ」とやさしく慰めるところが素敵。
「完璧な人間などいない」ということも。
そして、それが「経験」に裏打ちされているという点も。
かたや、
子を思う母のやさしさ、おろかさ、など
どの人間も多面体で描かれ、多面体でありながら統一されているという
この緻密な設計図をなんとしよう??
もちろん、手塚治虫という先人の、すばらしい原作があってこそかもしれないが、
その原作の中に潜む深い深い哲学を、
「百鬼丸の心」というフィルターを通して私たちに語りかける
この脚本の志の高さと緻密さに脱帽です。
私はかつてユゴーの「ノートルダム・ド・パリ」を読んで感動し、
これを日本の室町時代に移して戯曲化できたら、と試みたこともありましたが、
その最初の場面を見せられたような気持ちがしました。
ああ、
「どろろ」は「ノートルダム・ド・パリ」にも影響されてる!
そう確信しました。
人の心の身勝手さをやさしく赦すのも、また人間。
そんな温かい気持ちを胸に帰れる、
いいお芝居でした。
ふと、
マクバーニーの「春琴」を思い浮かべました。
陰影をうまくつかう美術といい、
「人形」とか「影」「黒衣」などを使って、
一つの人格を多面的にとらえ、演じる手法といい、
五年前の扉座のほうが早かった。私が知らなかっただけでした。
扉座の存在を知らなかったっていうことだけでも、
本当に恥ずかしい。
六角精児さんとか、旗揚げメンバーなのね。
日曜までです。
夕べは大入りでした。
五年前は、客が入りきらずに30分開演が遅れた日もあったとか。
むべなるかな。
ぜひぜひいらしてくださいね。

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