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「事件」


 事件 デジタルマスター修復版 / 松坂慶子
姉と妹、2人と情交を結んだ男が姉を刺した。
町の片隅で起きた、
人々の記憶からなどすぐに忘れ去られてしまうような事件の裁判記録から
愛を求めて必死に生きる女たちの情念を浮き彫りにし、
その一方で
「裁判とは何か」を冷徹に問いかける名作。
被告の男に永島敏行、
殺された姉に松坂慶子、その妹が大竹しのぶ。
裁判長は佐分利信、弁護士に丹波哲郎。
事件のカギを握る男に渡瀬恒彦。
最近では「法廷劇」はほとんど違和感なくお茶の間に受け入れられている。
「12人の優しい日本人」「それでもボクはやってない」など
続々と名作も生まれている。
弁護士事務所に持ち込まれる様々な事件を解決していく、といったドラマ、
「HERO」もそうだが、検事側を主役としたドラマも珍しくなくなった。
しかし、
映画が封切られた時代は、まだ目新い印象が強かったように思う。
特に、この映画で特徴的なのは、
裁判記録だけが「事実」である点。
「偽証しない」と宣誓された上で記録される証言。
この、法廷で記録されたことだけが「映像」となる。
つまり
私たちは証人や被告や、検察官の言に次々と印象を左右されるのだ。
新事実が発覚すると、それがまた「証言」として付け加えられていく。
被告の弁護を務めることとなった弁護士(丹波)でさえ、
どんな弁護をしたものか、決めかねている。
殺ったのか、殺ってないのか。
殺意は前々からあったのか。それとも、偶発的か。
現場には被告と被害者しかいなかった。
真実を見極めることは、いかに難しいものか。
「事件」を起こす「人間」の複雑な感情をきめ細かく描くことで、
私たちは痛感するのだ。
裁判員制度の導入に先立って模擬裁判に立ち会った人たちがみな思う
「そんな責任を自分は引き受けられるのか」。
裁判員になってこの事件の担当だと仮定してもう一度見直すと、
また違った体験ができるかもしれない。
脚本は、新藤兼人。
さすがなのである。
実は、恥ずかしながら、このレビューを書くにあたりこの事実を初めて知った。
誰が撮った、誰が書いた、なんて吹っ飛ぶくらい
当時のスクリーンに映し出された俳優陣は、本当に魅力的だったのだ。
強がって生きる姉・松坂慶子が、逃げる男の前でめろめろに崩れていくさまはフェロモン全開。
デビューまもない大竹しのぶは、幼く硬質な「女」を体当たりで演じ、
残酷なまでの清廉潔白さで姉の「汚さ」を許さない。
最近は重厚な役まわりが多い渡瀬恒彦が、アロハシャツを引っ掛けたチンピラを好演。
佐分利信はやわらかな口調で、何ものにも左右されず法を致そうとする印象的な裁判長。
一方、
「証人」たちが「被告」や「被害者」について熱く語るのに、
当の「被告」はどこか所在なさげで一本芯の通ったところがない。
そこがまた、この「事件」の真実を表しているところが、憎い演出なのだ。
結審後のある日、
歩道橋の上でバッタリ出会う渡瀬と大竹。
「お前も大した女だな」と言われた大竹しのぶが
日傘を差しながら大きなおなかでえっちらおっちら歩くラストシーンは、
まさに今、大女優となった彼女の将来を十分に予感させるものだった。
この話は、時を置かずNHKでドラマ化されている。
その時の弁護士は若山富三郎。若い被告を包むような語りが「弁護士」の存在感を大きくした。
姉の役はいしだあゆみ。
同じ水商売の女を演じながら、松坂慶子のような華やかさはない。
しかし、
狭い小料理屋のカウンターの中にしゃがみこみ、
まるまるの大根を生のままガリガリかじりながら
「さみしいよう、さみしいよう・・・」と目を真っ赤にして泣きはらす場面は鬼気迫るものがあり、
そこだけを、今でもふと思い出すことがある。
「日傘の大竹しのぶ」と双璧をなす、名シーンの一つではないだろうか。

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