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「ロミオとジュリエット」@Kバレエ(2)

今のバレエの世界で「新作」と銘打ち「ロミオとジュリエット」をやるのは、
それも、プロコフィエフの音楽を使ってやるのは、
はっきりいってバクチか破れかぶれとしか思えない。
それくらい、
バレエを知る者にとって、「ロミオとジュリエット」には一つのイメージがあり、
誰もそれを壊すことをよしとしないだろう。
一つのイメージ、とは、マクミラン版によって作られた世界。
ほかにラヴロフスキー版やクランコ版なども愛されているが、
マクミラン版は、アレッサンドラ・フェリの名舞台によって名を馳せ、
多くの人々に定番として大きな印象を与えた。
熊川自身も言っていた。
「ロイヤルでマクミラン版をずっとやってきたし、
 正直マクミラン版でやればいいじゃないっていう気持ちもあった。
 3人のメールダンスのところなんか、あれ以外どうやればいいっていうんだ?
 最後のジュリエットの死に方だって、シェイクスピアが書いている。
 剣で刺す。それ以外できないっていうのに。
 刺し方を変えるったって、そんなに違いは出ない」
とりようによっては、新振付は本意ではなかったようにも思える。
しかし、
今回のパンフレットに寄せられたアンソニー・ダウエルの言葉によると、
熊川はロイヤル在籍の頃から
自分の考えるロミジュリを作ってみたいという気持ちがあったという。
マクミランがあまりに偉大で、
当時の自分には、振付やディレクションのキャリアが全くなかった、
時機の到来を待っていた、ということか。
「これまで以上に手腕を問われることになる」と、ダウエルは助言していた。
そして、その日はやってきた。
Kバレエを主宰して10年、
活動の中心に古典バレエとその再振付を置き始めて5年。
熊川の「ロミオとジュリエット」は、
たしかに誰のものでもない、熊川のロミジュリだった。
たとえば、
舞踏会のシーン。
「舞踏会」にふさわしいきらびやかさよりも、
これから起こる悲劇を予感させるような
重々しい音楽に合わせ
重厚な衣装を身にまとった貴族たちが無表情で踊る。
これはマクミラン版でもラブロック版でも同じであり、
ここが「変わる」などと、誰が想像しただろう!
音楽が鳴れば、あの場面が思い出されるというほど有名なシーンが、
剣をつがえた二人の紳士を中心とした剣舞となるとは!
「あれ以上やりようがない」と熊川が言っていた
ロミオ(熊川)、マキューシオ(橋本直樹)、ベンヴォーリオ(伊坂文月)による
男3人のダンスには、
なんと女性を一人からませた!
ロザライン(松岡梨絵)である。
ロザラインとは、ロミオがジュリエットに出会う前に好きだった女性。
実はロザラインに会いたいがために、
彼はキャピュレット家の舞踏会に潜り込む、というのが原作だが、
バレエその他多くの作品で、このキャラはカットあるいは軽視される。
熊川版の最大の特長は、このロザラインのフィーチャーで、
前述のメールダンスの部分も、
若者3人がおネエさんのロザラインをめぐって他愛のない恋のさやあてをする。
ロザラインの見せ場もたっぷり。
ここにプリンシパルである松岡を配することで、
非常に舞台がしまった。
巧みにメールダンスのコンセプトを使いながらも、
単なる「オレたち3人組」にとどまらず、
3人の性格や立場がよくわかって
3人がキャピュレット家にもぐりこむなりゆきに説得力が出た。
何よりも、音楽とバッチリあっているのがすごい。
熊川の振付の妙は、
最初からこういう振付のために音楽を委嘱したんじゃないかと感じるほど、
音楽とシンクロするところである。
ロザラインは原作よりずっとキャピュレット家に近い存在として描かれ、
ティボルトがロミオに殺されるところを見たロザラインは、
ティボルトの亡骸にすがりついて嗚咽し、
そばにあった剣を握ってロミオに憎しみをたぎらせる。
ここは通常、ジュリエットの母が悲嘆にくれる場面で、
その悲しみ方があまりに大きいため、
「甥であり息子じゃないのに、ここまで悲しむのはなぜ?」など
イケナイ想像までする人がいるくらい。
熊川版でもジュリエットの母(そして父)も一緒に嘆くけれど、
その悲しみは、とても自然に思えるものだった。
ジュリエット(康村和恵)の造形にも最初から緻密な伏線が張られている。
通常、ぬいぐるみを持って乳母(樋口ゆり)とじゃれるという
なんとも幼いところから始まり、
そこへ「お前は婚約するんだよ」と親に言われて
実感がわかないジュリエットに
「ほらほら胸もこんなにふくらんで」と乳母に言われ、
自分の胸を触って少女から娘への成長を気づかせる。
しかし、
熊川はシェイクスピアよりプロコフィエフを優先した。
軽快な音楽で舞台に飛び出してきたジュリエットは、
同世代の女の子たちとかくれんぼをしてはしゃぐ。
ぬいぐるみはなし。
乳母との親しさは、そのままに、
幼いけれど、恋とは遠くない、そんな
大人と子どもを行き来する中学生のような年頃が感じられる。
親からネックレスやドレスを贈られて喜ぶが、
それが婚約のためだと聞かされると驚き、拒否するジュリエット。
知らない人と結婚させられるのなんて、イヤっていう気持ちが
最初からあふれ出ている。
ジュリエットが最後までロミオを想って突っ走る、
その助走が、すでにここから始まっているのだ。
舞踏会での出会いの場面は、
二人が互いに吸い寄せられていくのが手に取るようにわかる。
これは恋なのか?
この人が運命の人なのか?
この気持ちは何なんだ?
どうしてもあの人を見てしまうのはなぜ?
抗えない衝動が積み重なって頂点に達すると、
そこに他者が割って水入りとなる、
その緩急が見事で、
音楽のうねりとともに観客の心を引き回す。
まるで本物の、恋をしているようだ。
だからバルコニーでは
「どうしてあなたはロミオなの?」も
「名前なんてなくします!」も必要ない。
最初から名前なんてないのだ。
顔を見れば飛んでいく。
ジュリエットはすぐにバルコニーから駆け下りてくる。
ここのパ・ドゥ・ドゥは、
マクミラン版では高速で難度の高いリフトとが次々に繰り出され、
ジュリエットには過酷な柔軟性が強いられるポーズが続く。
二人は離れがたく絡み合い、恋の情熱がほとばしる感じ。
でも、
熊川版は、そのマクミラン的要素をあえてとりはずそうとしたか、
類似のリフトはあるものの数は少なく、
近づいては離れ、手を伸ばしながらとまどい、という
幼い恋のプロセスが初々しい。
だからこそ、
意を決した口づけ(それも手の甲)が利いてくるし、
その後の高く開放的な、そしてなめらかなリフトが
魂の至福を感じさせる。
このとき、リフトされた康村和恵ののびやかな腕や脚、
そしてリフトする熊川が描いた大きくなだらかな山が効果的だった。
昨日も書いたけれど、
この場面で一幕が下り、拍手がなりやんだとき、
どこからともなく、「んふ~~~~~~ん」という
ため息のような、うなりのような声が湧きがった。
ことりとも音のしない、バルコニーの場面。
恋する二人と音楽が一体となり、
最後の最後に唇を重ねた二人の目撃者となった私たちは、
我を忘れ、若い恋に酔いしれていた。
…書き出したら止まらない。
長くなるので、以降は次に回します。

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