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新演出「ミス・サイゴン」@帝国劇場

遅ればせながら、「ミス・サイゴン」観てまいりました。
もうあの大仕掛けの「ヘリコプター」はないのか、くらいの予備知識でしたが、
意識してかなり変えてきたな、という印象です。
以下、ちょっと長いですが、率直な感想。
今までの「オペラ的なもの」を「徹底したリアリズム」で新しく、
というのがその眼目ということで、
その言葉をパンフレットで見つけるまでもなく、
観劇中から「リアリズム」がガンガン襲ってくる。
ベトナム戦争は、史実だからね。
「リアリズム」だから描写としてのベトナムはリアル。
米国兵相手の売春婦たちが集まってキムとクリスの「結婚式」を祝う場面では、
パーティーを楽しんだり写真を撮ったりで、
「儀式」にいそしむのはキムとクリスだけ。
そのアンバランスさがリアルで、私は好きな場面である。
また、陥落以後、共産圏となったベトナムでの収容所の描写などは、
衣裳なども含め、悲惨・陰惨を極める。
しかし奇妙なもので、
細部の描写を「リアリズム」で推し進めれば推し進めるほど、
感動は「アメリカン・ドリーム」やら「みんな我らの子」などのアリアでこそやってくる。
リアリズムは結局、「事実」ではなく「真実」にこそ宿っていた、
だからこそ、
「オペラ的」であり、「様式的」であり、「劇的」であった旧バージョンは、
「借り物」であり「つくりもの」であっても世界中を感動の渦に巻き込めた、
というのは、逆説的でさえある。
「リアリズム」は一見
ベトナムにおける「戦争の悲惨さ」「蹂躙される大衆」を強調したようでいて、
実はベトナム帰還兵の苦悩において「リアリズム」が増している。
それは、
新たに加えられたのがヘレンの歌であったことに集約されるかもしれない。
ヘレン役の木村花代は演出家に
「全世界の妻の代表だと思ってください」と言われたという。
平和な暮らしに突如現れた過去の亡霊としてのキムに、どう対峙していくか。
「突然外からやってきて村を焼き尽くされ、親を殺され、どん底に突き落とされた悲劇の女」より、
自分の知らないところで起きた問題に平和な生活をかき乱される「普通の女」にこそ
感情移入できる時代になった、ということなのかもしれない。
それだけベトナム戦争は遠くなったともいえる。
当のベトナムさえ、まだ癒えぬ傷跡を抱えて無言で耐える人々よりも
繁栄と成長に期待の目を注いで邁進しているのだから。
最初の「ミス・サイゴン」が、
「蝶々夫人の物語を借りた我らの問題・ベトナム戦争」だとすれば、
今回の「ミス・サイゴン」は、
「ベトナム戦争の物語を借りた我らの問題・世界の紛争と帰還兵」となっている。
そう、
ベトナム戦争は、すでに「過去」となり、「現在」の問題を映す鏡として扱われているのだ。
帰国してなお戦場の悪夢にうなされ、
やっと落ち着いたクリスにつきつけられた「元カノ」と「知らなかったわが子」問題。
「ベトナムは、あの町は、謎だ」
うまくやれると思っていたのに、手に負えない存在としてのベトナムを、
国家としても個人としても浮き彫りにした演出となっている。
今回、もっとも感銘を受けたのは、ジョン役の岡幸二郎である。
もちろん、彼の歌声がものすごいことはここに書くまでもないが、
あの「アメラジアン(アメリカ兵がベトナム女性に産ませ、おきざりにした子どもたち)」を
「みんな我らの子」だと言って救おうとする演説の場面、
最初の歌いだしから彼は今までとまったくスタンスを変えた。
語るのである。聴衆に語りかける。
メロディはあっても、決して朗々と歌うのではない。
私は初めて「ミス・サイゴン」を観たときのジョンが岡だったのだが、
ジョンの二面性が理解できず、ジョンという役柄が好きになれなかった。
その後、岸、坂元、とジョンを見てきて、少し印象が変わったが、
岡はその2人ともまったく違う、
「二面性を二面性として表現する」ジョンを打ち立てたのだ。
それも「リアリズム」で。
ベトナム帰還兵は、クリスだけではない。
心が繊細で、精神の平衡を失い、ベトナムにもアメリカにも居場所が作れず、
キムやヘレンの懐に逃げ込むクリスのような帰還兵もいれば、
ジョンのように、
ベトナムではベトナムに、帰国すれば故郷で、
自分の立ち居地をしっかり持てる帰還兵もいる。
だからといって彼が「豹変」したり「ご都合主義」なのではない。
今いるところで自分らしく生きるためには、
自分に恥じない自分でいられるためには、一体何をどう行動すればいいのか。
ジョンはベトナムで、
病めるクリスにキムをあてがう。
一人でも多くのアメリカ人が帰国できるように計らう。
一人でも多くの渡米希望ベトナム人に書類を書く。
「自分でできること」の範囲内で、精一杯いい人であろうとするのである。
それは帰国しても同じなのだ。
アメラジアンを救おうとし、キムの子どもを探し出し、
バンコクに送金してお茶を濁そうとするクリス夫妻に「甘すぎる」と苦言する。
「いかに生きるか」を自問し、行動する男として、
岡はジョンの二面性に説得力をもたらした。
クリス役の山崎育三郎は、もう少し声に余裕があるとさらによい。
しかし終盤の存在感は抜群で、
「キーム!」と叫びながらキムの亡骸をかき抱くラストは、
今回の物語の主人公がキムではなくクリスであったことを
証明しているように感じた。
前述のヘレン役木村花代は難しい新曲を歌いこなして秀逸。
母性愛と知性にあふれ、でも深い愛情で嫉妬もする等身大の妻をよく演じた。
前回も怪演が光ったトゥイ役泉見洋平は、今回も不器用な愛のかたちを表して抜群。
「帰還兵の物語」にあってベトナム人の悲しみを1人で背負い、見事にぶちまけている。
トゥイの部下である副人民委員長に扮した川島大典も存在感を見せた。
昨晩のキムは笹本玲奈。
実力者だが、昨晩は彼女のよさがあまり出ていなかったように思う。
サイゴン陥落の前と後での演じ分けを意識しすぎたか。
その演じ分けはできていても、それぞれは一本調子に聞こえた。
村が焼けたところを話すところでも、子どもを抱いて「命をあげよう」を歌うところでも
キムが辿ってきたあの人生、この人生が万華鏡のように湧き上がってくる感じは
なかった。
そして、エンジニア。
結局、彼の「アメリカン・ドリーム」を聞くために、
この舞台はしつらえられているのかな、とさえ思われる
圧倒的な舞台人の実力がそこに。
彼は「エンジニア」を生きながら、お客さんをも相手にしている。
会場を背中で感じる冷静な目と、役に没頭する熱い思い。
その2つをもっていたのは、
市村のほか、岡と泉見だけだったように思える。
まだまだ、「必死さ」が透けて見える舞台であった。
「オペラ的」から「リアリズム」へ、の新演出。
「舞台的」から「映画的」とも言えるだろう。
「ヘリ」も映像になったが、本物と見まごうほどの「リアリティ」で
思わず「オスプレイ」問題を連想してしまった。
基地を持つ町の「現実」がそこにある。
アメリカが「守ってやる」ために持ってくるヘリは、結局、
最後の最後、アメリカ人だけを守ってアメリカに協力した現地人の希望を振り捨て
轟音を立てて飛び立っていった。
いつもいつも、いろいろ考えさせられるミュージカルである。
一筋縄では、いかない。
旧演出版のレビューは目次の「み」のところを見てね。
オペラ「蝶々夫人」のレビューはこちら

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