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「コースト・オブ・ユートピア」2回目

いよいよ今日が楽日となる「コースト・オブ・ユートピア」。
昨日、2回目の通し観劇にトライしてきました!
一度目は、誰がどういう役かも予習せずに行ってきて、
それこそタイトルの通りいかなる人生も行方も知らぬまま、
登場人物とともにロシアを「船出」してフランスに「難破」して
ロンドンに「漂着」してラストを迎えた感じだったのに対し、
今回は、
誰がどういう人生を送って最後どうなるかをすべて知って
神の目で見る10時間。
また、
キャストにとっては一度も観客の反応のわからぬままに演じた初日と、
日々の反応を受けて作り上げられた前楽の舞台と。
以下、
少々長いですが、
初日との比較も含め、昨日のレビューです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初日は一幕の、チェホフを思い起こさせるようなかっちりとした舞台の枠組みの中、
若い男たちが抽象的理想論で人生をなで斬りにし、
恋愛までをも同じ記号で表そうとする情熱と未熟さとがはちきれんばかりで、
その人生に対する野望、高揚、根拠のない成功への確信、
それらが自分たちの青春とも重なって胸に染み入った。
昨日の一幕は、
「すごい、こんな抽象的なセリフが、どうしてこんなにわかりやすいんだ?」
という初めてだからこその驚きや、
一人ひとりの人物紹介の見事さなど、手探りのなかで理解していく面白みが
二度目ということで味わえない分、
少し冷静に見えたかもしれない。
食卓に多言語が行き交う場面はかなりカットされてあった。
全体的に役者の角がとれた感じがあって、
それとともに、役者と役者の間にあった緊張感も少し緩む。
バクーニン役の勝村政信はかなりハミ出ル芝居で座を沸かせたが、
私はおとなしめ(それでも勝村は目立つ)の初日のほうが好みである。
昨日は二幕の完成度が抜群。
初日もよかった水野美紀が、さらに迫力とめりはりを獲得して
もっとも理解しにくい女・ナタリーをもっとも共感できる女として提示した。
「私の愛は大きなもの」という、わけのわからないゴタクを並べて
夫のゲルツェンを信奉しつつ、ゲオルグに自ら裸体を預けるナタリー。
ゲルツェンに「ゲオルグと寝たのか」と問い詰められたときの
「あなたは私の心の中にゲオルグが入ってくることは許せても、
 私のベッドに入ってくることは許せないのね?」という言葉に含まれた、
「大きな男」のはずのゲルツェンに対する彼女の失望が
非常によく表れていました。
それは後の
「彼(ゲオルグ)に出会って私は私の人生を取り戻したのに!」という叫び、
「私に出会ったときのお前の人生はどんなだった?」というゲルツェンの言葉に
二人の関係がすべて顕わになってしまう場面へと続きます。
貧しかったから、惨めだったから、ナタリーはゲルツェンの妻になった。
それは「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のジョバンナと同じである。
ただ、
ゲルツェンは優しかったし、「大きな男」だった。
だからナタリーは本気でゲルツェンを愛し、助け、
警察に監視される日々を、ともに生きようとした。
しかし、
ゲルツェンは浮気する。女中と浮気する。
夫を政治にとられるのは我慢できても、
自分と同じ「女」にとられるのは理不尽だと思った。
そこで、
彼女は考え方を変える。
夫のように「大きな」女になればいい。
ジョルジュ・サンドのような、新しい女。
自分のことだけに固執しない、「大きな」女。
ゲルツェンでなく、自分を中心に置いたその途端、
ナタリーの世界観は変わった。
彼女はゲルツェンにいろいろと言い訳を並べ立てるが、
結局は「大きな」「新しい」愛だって言い訳にすぎない。
「彼(ゲオルグ)に出会って私は私の人生を取り戻したのに!」
という叫びこそ、真実だ。
条件付でない恋を、初めてした。
自由な魂として。
「君がいなければ破滅だ」というゲルツェンに対し、
「そんなことはない。最初から私の居場所はとても小さい」とつぶやくナタリー。
それこそが、
ナタリーの「反乱」の根本でもあったのだから。
けれど、
愛は愛、生活は、生活。
そのずるさがナタリーの疵であり、そして強さでもあったから、
ゲオルグは捨てられ、
ゲルツェンと元鞘におさまる。
そこには「家庭」があったから。
このへんてこな夫婦を固く結ぶ絆の一つに、
耳の聞こえない息子・コ―リャの存在がある。
その死の場面、
水野真紀の母としての演技に思わず涙。
そして一部のラスト、
その子の父親であるゲルツェンが叫ぶ。
「子どもはみな大人になると思っているが、子どもの役割は大人になることではない。
 大切なのは、子どもが子どもとして、いかに幸せに生きたかだ。
 未来まで所有しようとするのは人間だけ。
 造花でないユリは永遠に咲くことはないけれど、
 だからといってユリの価値が下がることはない!」
ここの阿部寛がいい。
社会とは段階を経て成長し、理想に到達するのだと信じて闘ってきたゲルツェンに
そんな「公式」は万能でない、と覚らせたのは、
子どもの死だったのだ。
ゲルツェンの中で、形而上と形而下が統一された瞬間である。
それは、「今」を犠牲にして「未来」を作ろうとする
テロリストたち、イデオロギストたちとの決別宣言でもある。
1848年のフランス・二月革命の成功と挫折がもたらした
多くの人々の血の意味を
一人の政治活動家の家族愛に集約した、
非常に濃密な3時間であった。
第三部はいろいろな話が交錯する複雑で長い舞台。
とうとうロシアに帰ることなく客死するゲルツェン一家の行く末を
最後は一部と同じように「家族で集まる日」に象徴して暗示する。
三部では、
一部でスタンケービッチ役を好演した長谷川博己が、
革命家チェルヌイシェフスキーとして再登場、こちらも鋭い役作りで見事。
かつて崇拝していたゲルツェンに初めて会い、
「生ぬるい」と批判しつつも研ぎ澄まされた対話の中で根本で分かり合っている、
そういう活動家同士の連帯感をしっかりと観客に伝えている。
だからこそ後半、
「二人の間に何の共通点もない!」と別の活動家が喝破しても、
ゲルツェンだけでなく、観客も動じないのである。
瑳川哲朗は、バクーニンの親として出てくる一部もいいが、
今回はポーランドの政治難民ヴォルツェル役の三部がより印象に残った。
それは、
初日は右側の席、昨日が左側の席、ということに尽きるだろう。
下手から出てきて上手の「夕陽」を眺めることの多かった一部に対し、
昨日はヴォルツェルの顔がよく見えたからだ。
席の位置で印象もかなり変わる。
舞台を四方の席が囲む変則舞台のうち、
初日は1階の、正面から見て右側のバルコニー席、
昨日は中二階、左側のバルコニーだった。
比べて見る、というのは、
また違った味がする。
今ごろ、第一部の二幕佳境。
最後の最後まで、蜷川さんはダメ出ししてるのかな?
ちょっと修正しました。
今頃、二部の終わりごろ。
みなさん夕食食べて、ほんとの最後の三部に突入ですね!

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