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「歌わせたい男たち」

「歌わせたい男たち」は、喜劇です。
何を歌わせたいかっていうと、「君が代」。
公立学校の卒業式で、「国家斉唱」の時、その学校の先生が「起立」せず、歌わない。
そういう「君が代は歌いません!」という意志を持った先生に、
何とかして「歌わせたい」校長先生とか、同僚の先生のお話です。
シャンソン歌手として目が出なかった仲ミチル(戸田恵子)は、
ようやく都立高校の音楽専科の講師という職を得ます。
卒業式当日、めまいで保健室で休んでいると、
そこへ校長先生(大谷亮介)が。
去年の音楽の先生は敬虔なクリスチャンで、
「君が代」を演奏することを拒否し、大問題になったということを、初めて知るミチル。
自分がミッション系の学校出身ということや、
「十字架」のペンダントをしていることにすら過敏に反応する校長に、
この「問題」にまったく首をつっこんだことのないミチルは、ただ戸惑うばかり。
そこへ、「不起立」を決意している拝島先生(近藤芳正)登場。
もう教師で「不起立」を表明しているのは、彼だけ。
「君が代」の40秒を弾かせ、歌わせ、
滞りなく卒業式を終えたい校長の、必死の説得が始まります。
「卒業式まであと二時間」のタイムリミットを背に繰り広げられる攻防戦。
そのやりとりがあまりに滑稽で、笑う、笑う。
そしてふと恐ろしさがのぞく、そんな戯曲です。
5人の役者が緩急を自在に操り、完成度の高い舞台に仕上げます。
戸田、近藤もいいが、特に大谷がすごい。
上に都知事と教育委員会を戴き、下に教師の突き上げ、という中間管理職の悲哀を、
見事に体現しています。
生きていくためには職が必要、この職のためには、ポリシーなんてない、のミチル、
「日の丸・君が代」問題に揺れた時代をまったく知らない若い教師たちの能天気ぶりが
横糸になって、拝島と校長の葛藤にうまくからんでいきます。
「シャンソン」というのも、実は重要な伏線の一つです。
人間にはソントクを越えた譲れないものがある、と自分の中の「ギリギリの線」を守ろうとする拝島。
切々と「内心の自由」の大切さを訴えます。
「ボクは左翼からは『軟弱』と批判され続けてきた男だよ。
 それが、今じゃ『ガチガチの左翼』とか言われちゃうんだからね」
拝島の心情を理解しつつも、「上から」のお達しとの整合性をどうにか見つけようとする校長。
彼だって、悪い人じゃないんです。
拝島の生活のこととか、職のこととか、いろいろ考えている。
「周り」への影響も考慮している。
問題が起きると、あとで「研修」をたくさん受けなくちゃいけないから。
それも連帯責任で、自分も、他の教師も。
最後は
「どんなに強制されたって、『イヤだな』と思う内心の気持ちは変えられない。
 でも、『イヤだ』を外に出したら、もう『内心』じゃないんです!」というヘリクツに到達するのです。
これは、実際に出た最高裁の判決の中味です。
自分の正当性を訴える校長の最後の「演説」は、この戯曲のハイライト。
世が世なら、ハナで笑える滑稽な場面でありながら、
心底背筋が寒くなる場面でもあります。
そう、
これは、「今」本当に起こっていることそのものだから。
この「歌わせたい男たち」が初演された2005年、
東京の公立学校ではこの「不起立問題」で実際にたくさんの教師が処分され、
訴訟も起きていました。
私の卒業した都立高校でも、同様のことが起きていて、とても身近な問題でした。
だから、
ものすごく切実なんですけど、
それを「喜劇」の「フィクション」にしちゃったところに、
演劇の力を感じたものです。
だって。
とある学校のある年の卒業式に、警官が配備されたとか、そんなことは、
次の日の新聞に小さく出るか出ないか。
そして、日が経つと忘れられてしまう。
けれど、
演劇は「戯曲」として残り、
この問題の当事者だけでなく、この問題を知らなかった人にも届けられる。
ベニサンピットの全部で200席あろうかという小さな小屋の、
せまーい通路の階段にまで観客が座っているところで演じられたこの劇は、
2008年、紀伊国屋ホールで再演され、
戯曲は本「歌わせたい男たち」になって出版されました。

昨今、教師の指導力不足が問題視されています。
自分で考え、自分で生徒と向かい合い、
教員同士で論じ合い、多様性を認めていく、そういう教師が激減したのは、
「日の丸・君が代」問題が「踏み絵」になった1985年がターニングポイントだと
私は思っています。
「教師になりたい」と思っても「日の丸・君が代」はどうする?
そこで「やーめた」とばかりに、教師という選択肢を捨てた人はたくさんいると思います。
みんな「軟弱」なのですから。
自分の「内心」を常に問われ、あるいは問いながら生きていくとは、何て苦しいことでしょう。
今暴動でニュースになっているチベット自治区では、
公務員は必ずダライ・ラマの批判文章を書かされてきたといいます。
彼らにも「イヤだな」と思う内心の自由はある。
でも「職務命令」だから書く。
それは「内心の自由」を侵してはいない。
「イヤだ」といったら、それは「内心」ではない。
それは、民主主義の社会?
どちらかというと「日の丸・君が代」にこだわりを持って生きてきた私ですが、
2002年の日韓サッカーワールドカップで予選3戦全部観戦した時、
座席に配られていた画用紙日の丸を高く掲げ、
思いっきり大声で君が代を歌いました!
自分の中で「いいのか~?? いいのか~??」という内心の声もありました。
一方で「歌おうよ! ここで歌わないでどーする??」の内心の声もあったわけで。
それが「転向」とか「変節」とかいわれてヤユされるのもナンだし、
そこで歌わなかったとしても「非国民」とか「KY」とか言われたくない。
歌っても歌わなくても、
そこにいた人たちは、みんな日本代表を応援していたし、
日本が大好きな人たちばかりだった。
「内心」を自由に口にできる自由を、「内心の自由」っていうんじゃないでしょうかね。
2005年の時は、校長の「演説」に圧倒されてしまいましたが、
昨日再演を見て
今回は、ふとそう思いました。
とにかくこういう問題が「問題」だと知ってもらい、
どちらの言い分にもそれぞれ理があるけれど、
どうしてそこまで対立しなければならないところまで追い込まれなければならないのか、
その「不自由」を
一人でも多くの人が感じてくれればいいな、と思っています。
もっとうまく、もっとみんなが楽になるような解決方法がきっとある。
対立したり処分したりするのではなく、
みんなでそういうふうに考えられたらいいな、と願っています。
明日は、
作者の永井愛さんが野田秀樹さんをむかえてのアフタートークのもようについて、書きます。

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