衝撃の初演から二年。
「NINAGAWA十二夜」が歌舞伎座に帰って来た!
それもそのはず、
このお芝居ほど「歌舞伎らしい」ものはない。
男女の双子という設定と、女が男のなりをするいきさつで、
尾上菊之助は、二重三重の「一人二役」。
早変わりの見事さに、観客はやんややんやの大喝采。
歌舞伎の楽しさがここにもあそこにも散りばめられているのだ。
男のなりをしているが、女、というところは、
声色や仕草をデフォルメして観客に示し、
一幕も半ばになると
琵琶姫が男装している時の「獅子丸」の、ちょっとナヨっとしたキャラクターが
愛らしく微笑ましいものとして、定着しているのだ。
同じく男装している兄の「主膳之助」との区別もすぐにつくようになる。
おそらく、同じ着物を着ていても、すぐにどちらかわかるだろう。
菊之助は、どの場面をとっても輝いているが、
二幕の初め、
獅子丸が、男として自らが仕え、実は女として密かに慕う左大臣の前で舞う
その舞の美しさが白眉。
パンフレットによると、ここは初演に手を加え、さらに充実させたとある。
「言葉遊びや心理描写にとらわれすぎていた」という前回の反省をふまえ、
「もっと身体を使って男女の演じ分けをより鮮やかにしたい」という菊之助の意気込みは、
手ごたえのある形になって美しく示されている。
「稚拙な現代劇の手法は持ち込まない」という蜷川の歌舞伎文化へのリスペクトが、
歌舞伎界の人間に歌舞伎の可能性を気づかせた。
そこが、この「十二夜」の再演につながったと私は思う。
尾上菊五郎も、初演の時は
「何か考えがあってのことだろうから、知らない者が口を出してはいけない」
という部分がお互いにあったと振り返る。
今回はそこを乗り越え
「役者は自分たちの引き出しでやれることやれるところまでやればいい」と
自分を、歌舞伎を信じて演じている。
「これだけ歌舞伎役者が出ていれば、どうしたって歌舞伎調になる。
あとは蜷川さんにお任せすればいい」という言葉には、
板の上の役者の自負が、伝統を引き継いできた者の確信が満ち溢れている。
役者の「しどころ」という言葉がある。
筋に関係あってもなくても、
出てくる役者に何かしらの芝居をさせる。それが「しどころ」。
どんな小さな役でも、その場では彼にスポットライトがあたる。観客の目が行く。
歌舞伎とは、そんな「しどころ」の連続だ。
すべてのキャラクターに見せ場があり、
それぞれの役者がその実力で「しどころ」を大いに盛り上げる。
英竹(翫雀)も、捨助も坊太夫も(菊五郎の二役)、織笛姫(時蔵)も、
みんな自分の「しどころ」を知り尽くしているのだ。
特に、奥女中・麻阿役の市川亀治郎が大活躍。
現在NHKの大河ドラマ「風林火山」で武田晴信(後の信玄)をやっている亀治郎は、
テレビの印象とは正反対の、コミカルで機転の利く「オバちゃん」キャラを
非常に魅力的に演じていた。
「いるいる、こういうオバちゃん!!」という親近感と、
度が過ぎるイタズラを仕掛けながら、まったくイヤミに感じさせない憎めない女性。
時に、愛人にしなだれかかる「妖艶」さもあって、着替えはなくても七変化。
客席を見事に自分にひきつけていた。
シェイクスピアがこの「十二夜」を書いたのは、1601年。
17世紀にイングランドで書かれた物語が、
ちょうどその頃、地球の反対側の日本に生まれた歌舞伎によって、
21世紀、ほぼ一字一句変わらずに上演されて大ウケする。
結局、人間の営みとは、人間の心とは、一つも変わることのない繰り返しなのか。
逆にいえば、それほど人間の本質をとらえた文化がそこにある、という証拠。
400年たって、今も私たちをうならせるシェイクスピアとは。
それを見事に自分たちの物語にしてみせる、歌舞伎とは。
古典を、バカにしてはなりませぬぞえ。
新しいもの、時代の息吹を取り入れようとする気概を持った古典ほど、
恐ろしい力の持ち主はありません。
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