「私に人間的関心の希薄だったことは前にも述べたとほりである。
父の死も、母の貧窮も、ほとんど私の内面生活を左右しなかった。
私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、
人間も物質も、醜いものも美しいものも、
おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまふ 巨大な天の厭搾機のやうなものを
夢みてゐた。」
三島由紀夫の「金閣寺」第二章の一節です。
主人公にとって、父の死、母の困窮は絶対的な衝撃を与えていましたが、
その衝撃に倒れまいとしてさらなる鎧で心を武装していく感じが文章に表われています。
この前、映画「8minutes」を観ていたら、
爆弾による無差別殺人を企てた殺人犯の「動機」がこれに似ている、と思いました。
「無差別(殺人)」とは、
「1人ひとり」を「ちがうもの」「大切なもの」と考えていない証拠です。
それは、
とりもなおさず自分が、自分の大切な人が、
周りからちっとも大切にされていないという絶望感から生まれる狂気ではないでしょうか。
生きる醜さを忘れさせる、滅びの美。
一瞬の高揚。
「桜は散り際がもっとも美しい」と感じる私たちに
彼らと同じような狂気がしのびよる危険性がある。
常にその危険性と隣り合わせである私たちと、彼らと、どこがちがうのか。
愛されているか、否か。
愛が通じているか、否か。
認められているか、否か。
少なくとも、愛され、認められる予感がするか、否か。
希望があるか、ないか。
そこだと思いました。
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無差別殺人者の心理@「金閣寺」と「8minutes」
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