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「ガブリエル・シャネル」

今年はココ・シャネル生誕125周年なのだそうで、
シャネルにちなんだ作品のレビュー第二弾は、
東京の新橋演舞場で今やっている「ガブリエル・シャネル」
主演は大地真央である。
宝塚出身の大地真央がタイトル・ロールで相手役が今井翼で、
同じく宝塚出身で歌のうまい彩輝なおや、
ゴスペルでも有名なジェームス小野田が出るというから、
この前紹介した鳳蘭主演の「COCO」と同じく、
こちらもミュージカルなんだと何の疑問も抱かず思い込んで観に行った。
そして確かに10曲以上も歌があったのだけれど、
「これはミュージカルじゃない」のだそうだ。
たしかに、
どこにも「ミュージカル」って書いてない……。
なぜこんなことから書き始めるかというと、
舞台を見ながら「ミュージカルとしては『COCO』に及ばない」
と感じたからだ。
まず、芝居がはねても頭の中でメロディーがリフレインするような曲がない。
場面として大事なところに、歌が使われていない。
使われていたとしても、印象が薄い。
だから、拍手のタイミングがつかめなかった。
朗々と歌い上げた役者が、沈黙の中舞台中央に取り残される。
これは、舞台の作りとしてどうなんだろう?
歌を歌わせておいて、「ミュージカルじゃない」というのは
私は逃げに思えるし、作り手として無責任のような気がする。
「ミュージカル」じゃないとしても、
音楽を多用したことが功を奏さなかった第二の原因は、
歌い手の力量不足も挙げられよう。
「COCO」は岡幸二郎、鈴木綜馬ら
「プロ中のプロ」のミュージカル俳優を揃えているのだから、
もちろん比べるべくもないが。
ただし、俳優に責任を負わせられない部分がある。
みな「ストレート・プレイ」だと思ってエントリーしたという。
1曲くらい歌うのかと思ったら、10曲もあった、という人もいる。
カワイソウだ。
高橋恵子なんて、いきなり歌手の役。
とっても上手にシャンソンを歌って「さすが!」と思ったが、
やはり「本物」の歌手にはかなわない。
「本物」のジェームス小野田といえば、
ソロがほとんど1曲のみで使い方がもったいなさすぎ。
ただ、
主演の二人には責任があると思う。
丁寧に慎重に譜面どおり歌っている姿勢に誠実さは感じるが、
大地は宝塚「歌劇」団出身の元トップだし、
今井はとりあえずCD出して「歌手」なんだから、
「そこそこ」とか「音ははずさなかった」とか、そのレベルでは困るのだ。
歌に艶と揺れとオーラがなければ、
歌で演ずる理由がない。
二人とも、
演技の部分では非常によかっただけに、
「なんで歌を歌わせたのか?」と心から残念に思う。
ストレートプレイだけで十分勝負できたはずだ。
特に、
今井は大地とのキャリア差年齢差を感じさせない余裕のあるたたずまいと、
太くのびのある声で魅力的。
「ミュージカル」もどきなので、マイク付ということもあるが、
セリフもクリアで心情がよく伝わってくる。
アーサー・カペルという、聡明で裕福だが私生児、という複雑な役どころを、
おおらかさやもの静かな中に陰や感情の爆発を時折見せて好演。
彼の演技センスのよさは
大河ドラマ(那須与一役)である程度知ってはいたが、
これからの精進の仕方によっては舞台人として大化けするかも。
ただしミュージカル俳優としてやるなら、もう一度声の出し方から基礎を積んでほしい。
「歌手」として売れたプライドをかなぐり捨てて舞台に賭けるつもりがあるかどうか。
彼のこれからを注視していきたい。
大地は12歳から71歳までという、とてつもない年齢幅を演ずるが、
どの年齢も違和感なし。
特にすばらしかったのは、「12歳」である。
子ども、ですよ、子ども。
お転婆なガブリエルをコミカルに演ずる大地ははつらつとして、
さすが宝塚の男役、
あのかわいらしさと躍動感とは、誰にでも出るものではない。
しかしこの愛らしい12歳のガブリエル・シャネルに
「とても意地悪されたから、私は性格がキツクなった!」と言わせたはずなのに、
男の前のガブリエルは、あまりにも「女」。
死んだアーサーの亡霊に泣き言をいうファースト・シーンで、
シャネルの中の「女の弱さ」は決定づけられてしまったともいえる。
物語が進んでも、仕事の上では妥協を赦さず自立自立と叫ぶシャネルが、
その実「男のカネ」をあてにしていたり本妻に嫉妬したり、という
そのあたりが妙にアンバランスで、
「本当はシャネルもさびしかった」という感じの人物設定は、
「所詮はシャネルもただの女」的に彼女のオーラをひんむいてしまった感がある。
その点、
「COCO」の鳳蘭は、
さびしかったろうし、くやしかったろうし、
本当はよりかかりたかったろう弱い気持ちを裏で見せながらも、
絶対にそうしないぞ、というやせ我慢的なところや、
「男を踏み台にし、カネをあてにして何が悪いの?」といった露悪的なところが強調され、
かえってシャネルを魅力的にした。
結婚しない理由も、
「私は家庭におさまるような女ではない」より
「公爵夫人になれる人はいるけど、ココ・シャネルは私しかいない」のほうが
胸がすくというもの。
元トップスター対決は、
かわいらしさや美しさを通り越した「空前絶後の女性」を体現した鳳蘭が、
キャスト・スタッフ・作品などチーム全体の総合力も加わって圧勝、
といったところだろうか。
舞台の作りという点で、もう一つ難点が。
2幕仕立てだが、幕中は暗転による場面転換が多く、
闇の中で「おあずけ」の時間がけっこう長い。
観客は徐々に興奮が高まる、という状況を形成できないまま、
シャネルの人生が淡々と流れていった。
演出は宮田慶子。
脚本は、作詞も含め、斎藤雅文。
新橋演舞場でしかやらない(7/3~7/27)わりには、
せっかくの「花道」という構造もうまく利用されていないし、
紙芝居を見るようで、奥行きが感じられなかった。
私は先に「COCO」を観ていたので、
「COCO」では詳しく触れられていなかったところや
違う解釈で進むところなどがあって、
シャネルという女性の伝記のすべてのページを埋める、
という感じで興味深く観ることができたけれど、
最初にこちらを見ていたら、逆に「COCO」を観たかなー、と思う。
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本筋とは関係ないが、
個人的に好きになれなかった場面が一つ。
シャネルがバレエ・リュスに関わったことに触れるシーンで、
ピカソ、ラディゲ、プルースト、コクトー、ストラヴィンスキー、ディアギレフ、
ニジンスキー、サティ、ヴァレリーを出しておいて、
奇人・変人・麻薬中毒・女狂い・借金まみれと紹介するのはいかがなものか。
彼らのことをそう呼べるのは、
彼らの才能を知っている人だけだ。
観客の中には、ヴァレリーもニジンスキーも知らない人はたくさんいるだろう。
とってつけたように彼らの業績を読み上げても、
あまりにこっけいな舞台姿は、
観客の脳裏に刷り込まれていくに違いない。
とりわけニジンスキーはセリフもなく、
ただ数回舞台を踊りぬけるだけなのだから、
演技など何もできなくてもたとえ無名でもいいから、
バレエの舞台をプロとしてやっている人を抜擢するくらいのことはしてもらいたかった。
なんか、悲しくなっちゃったんだよ、私。
20世紀の芸術のビッグバンっていうか、ここに未知の可能性が詰まっていると予感させる
素晴らしい芸術家集団だからこそ、シャネルは応援したのだろうに、
どうして彼らをあんなに笑いものにするように仕上げなくちゃいけなかったのか。
その必要性が、どうしてもわかりませんでした。

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