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「鹿鳴館」

昨日に引き続き、テレビ朝日開局50周年記念ドラマについて。
今度は三島由紀夫原作の「鹿鳴館」で、脚本は鎌田敏夫です。

鹿鳴館」はもともと戯曲、つまり芝居の脚本として書かれています。
古典的な西洋演劇には、「三一致の原則」というものがあって、
一つの舞台は一つの筋を、一つの場所で、一日以内に起きたことを描かなければならない
ということになっていました(筋、場所、時の三要素が一致という意味で「三一致」)。
今の映画やドラマのように、
話がコロコロ変わったり、場所や時間があっちこっちに飛んではいけないのです。
「あれから十年・・・」とか「ところ変わってここはパリ」
それどころが、タイムマシンで昔むかしへ!
・・・などという舞台の変化に人間はついていけない、と
古代ギリシャの人は考えたのでした。
戯曲「鹿鳴館」も、この原則の流れを受けた正統派の作りで、
日時は「天長節の日」の昼と夜、
場所は「影山伯爵の家の茶室」と「鹿鳴館の大舞踏場」だけで話が進みます。
こうした縛りは古代人にはいいかもしれないけれど、
空想の中を自在に旅することのできる現代の私達からすると、
ストーリー展開がかなり不自然に感じられるものです。
天長節の日より前に起きたことは、全部誰かのセリフの中で説明されるわけだし、
伯爵の家に、いつもは来そうもない人が呼ばれたりしてやってくる。
そうした「不自然さ」を、テレビドラマは時間を前後させたり引き延ばしたり、
登場人物が出会う場所を散らばらせたりすることで、
できるだけ「自然」な流れに翻訳していきます。
私は三島文学はあまり得意でないのですが、
今回「鹿鳴館」を読んでその理由の一つがはっきりとわかりました。
女性の書き方が類型的なんです。
だから、共感しにくい。
時代錯誤的な違和感とは違います。
女の、言うに言われない「好き」と「嫌い」のないまぜになったような感情や、
母親と認めてもらいたい一方で、子どもの未来を気遣う気持ちを、
もしかしたら三島は理解できてなかったのではないでしょうか。
主人公である朝子は、新橋の芸妓から影山伯爵夫人におさまりますが、
その前に清原という男との間に男子・久雄をもうけ、清原に託していました。
成人した久雄と出会ってすぐに「私が生みの母」と名乗ってしまうところや、
やはり別れて以来会っていなかった清原のことを、ずーっと好きだったと言い切るところ、
(それも子どもに向かって!)
影山が自分をだまして清原を殺めようとしたと知るや「お暇をいただきます!」とか、
昭和30年代に明治時代のお話を書いたとはいえ、
はっきり言ってストレートすぎて鼻白むセリフがたくさんあるわけです。
鎌田敏夫のすごいところは、
戯曲の人間関係や、登場人物の対立・対決の構図をほとんど変えずに、
影山夫婦の内面を深く深く掘り下げて厚みを持たせるとともに、
「継子いじめ」「政略結婚」といったありていのエピソードを削り、
現代にも通じる心理状況に近づかせた点です。
朝子(黒木瞳)は久雄(松田翔太)に母親であることを匂わせながらも
絶対に名乗りをあげない。
清原(柴田恭平)に思いは残すものの、既に「一緒に歩む」人間ではないことを悟っている。
たとえどんな形であっても「長く暮らした夫婦」の互いの思慕をこそ、
本物にしたいと願う女心を、朝子にきちんと語らせています。
男性の方も同様のことがいえます。
「本音を言い合えてこそ、本当の夫婦」。
修羅場をくぐれば、同志としての連帯が生まれ、一歩近づけること、
自ら傷を負い、相手の傷を許せて初めて一人の大人としてワルツが踊れる、というラストは
「鹿鳴館の舞踏はただの猿真似」そして
「西洋人は自尊心がある者しか認めない」という
三島の言葉をきちんと引き取って、
日本の成熟に影山(田村正和)と朝子夫妻の成熟もかけて描ききっています。
影山とその父との対立の挿話も効果的で、
「家族だからこそわかってくれると思ったのに」という嘆きが、
影山の感情を押し殺した日々の源であったと非常にナットクがいきました。
しかし、
もっとも感動的だったのは、息子・久雄のなきがらを馬車の中で抱く清原の涙でしょう。
「なぜ、はずした?」
至近距離で父親である自分に銃口を向けながら意図的に狙いをはずし、
自らが撃たれて死ぬ選択をした息子を掻き抱き、
哀切な声を絞り出す柴田恭平。
それに続くむせび泣きには、思わず目頭が熱く・・・
そこへ、久雄の恋人・顕子(石原さとみ)が乱入、
「ひさおさんっ!」と大声で号泣。
いきなり息子との絆をもぎとられて、柴田恭平馬車から降りちゃう。
あーん、いいシーンだったのにー、もっと余韻にひたっていたかったー!
・・・のうらみはありますが、
私はここが一番好きなシーンでありました。
鎌田敏夫ばかりを持ち上げましたが、
それもこれも、三島が冷徹な政治家・影山の言葉として
「私が生れてはじめて感情にかられて行動しようとしてゐるからだらう」というセリフを
書いたからこそだと私は思っています。
家のことも収められず、国のことを語る資格があるのか、というテーマにも見え隠れし、
そのいかにも今ふうな主張が勝った分、
原作にあふれる爛熟した特権階級のいやらしさは多少トーンを下げました。
そうした「いやらしさ」は、
朝子に長く仕えながら、影山に肌を許し二重スパイになっていく草乃(高畑淳子、怪演)のみに
集約されていたように思います。

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