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「ライオン・キング」@ブロードウェイ

「ライオン・キング」。
劇団四季がロングランを重ねている。
私の娘は小学校、中学校、高校の演劇教室
すべてが「ライオン・キング」だったという経験を持つ。
修学旅行で観に来る生徒さんたちも多い。
そこで「ライオン・キング」を見た人たちに言いたい。
あれを「ライオン・キング」だと思わないで!
本当の「ライオン・キング」は、
アフリカン・アメリカンたちの、それも最高の声と演技力と身体能力を持った人たちがやって
初めて真価を発揮する物語なのです。
私がNYでミュージカルを見て改めて思ったものの一つが
「人種」でした。
たとえば、
「メアリー・ポピンズ」は白人だけで演じられています。
家の主人たちはクイーンズ・イングリッシュを話し、
家の召使たちはコクニーなまりで話します。
逆に
「メンフィス」はアメリカにアパルトヘイト的な公的差別があった時代の話。
だから、
白人役は白人が、黒人役は黒人が務めます。
逆にいえば、このお話はほかの人種が入ったらそれこそ「オハナシにならない」。
どんなにソウルフルに歌が歌える女優であっても、
もし彼女が白人ならば、主演の黒人女性の役を射止めることはないでしょう。
それは、一見「人種のカベ」にも見えます。
でも、その「カベ」によって築かれた作品の心棒はゆるぎなく、
「差別」とかそういうものを越えた、圧倒的な説得力を持っているのも確かなのです。
黒人女性が歌いあげるとき、
それは黒人の通ってきた辛くて厳しい歴史のすべてが見えるように聞こえます。
まさに「魂」の叫びです。
彼女は個人であって個人でない。
民族を、人種を、歴史を体現しているからこそリアリティがある。
同じことが、「ライオン・キング」にも言えるでしょう。
これは
「アフリカ賛歌」なのです。
黒人は、アメリカで公民権を得たから幸せになったのではなく、
アフリカという大地が素晴らしい場所であった。
アフリカで培われた文化というものが、誇らしいものであるということを
アフリカ的な歌、アフリカ的なファッション、アフリカ的な色彩、
アフリカ的な情景、アフリカ的な自然、アフリカ的な土着宗教、
そういうものを入れ込むことで表しています。
しかし誤解してはいけないことが、3つあります。
一つは、
「アフリカン・アメリカンがやれば誰でもいい」わけではない」こと。
まず身体能力が高くなければならない。
セリフ一つなく棒を回して「鳥」を空中に飛ばすだけの人も、
その悠然として美しい身のこなしは自然と一体になったがごとき感動を呼びます。
四季で観た時はちょっと笑ってしまった「頭に草を乗っけた人たち」も
セリからグワーっと上がってきただけで、大地のエネルギーを感じ、
揺らぎによってそよ吹く風も見えるような気がしました。
セリフ術にも長けている必要がある。
敵役のスカーのセリフの重みは、まさにシェイクスピア劇のそれです。
歌ではなく、セリフで、そして表情で、奥深い世界へといざなっていくスカー。
一流の俳優であることが要求されます。
二つ目は、
この「アフリカ賛歌」を作った力は、白人やアジア人の叡知でもあったということ。
音楽は、アフリカの音楽を入れたとはいえ、総責任者はエルトン・ジョン。
振付は、ジュリー・ティーモア。
そのジュリーがこの「ライオン・キング」のために作った仕掛けは、
日本の文楽を参考にした人形遣い。
もっといえば、
「ライオン・キング」という話自体が、
手塚治虫の「ジャングル大帝」からインスパイアされているわけで。
一見「人種のカベ」に見えるものが
実は「全人類の文化の融合、叡知の統合」によって成っているというのが
本当に素晴らしいと思います。
さきほども触れましたが、
セリフ劇はシェイクスピアです。
ほかにも
ザズは、道化役。一流のボードビリアンでなければ
「シルクハットをかぶった滑稽な男」と「鳥」という二つの顔を自在にあやつり、
ある時は幕の前でも後ろでも「一つの人格」を保ちながら演じることはできません。
ミーアキャットのティモンも難役です。
ほかの役はいわゆる「人形」や「お面」を使って動物になっていますが、
この役は着ぐるみです。
それも「半分」着ぐるみ。
遠目で見ると、着ぐるみだけが生き生きと動いているようにさえ見える。
文楽でいう「遣い手が見えなくなる」瞬間です。
それもしゃべっているのは、遣い手であり、人間だけを見ていたって十分表情豊か。
つまり「一つの人格」を二つの形で同時に表現し、その上で一体化しているという、
ザズとはまた違った技術が必要なのだと思います。
その上、最高のコメディアン。
丁々発止のやりとりは、テレビのコメディーショーを見ているような楽しさです。
つまり、
この2役は「必ずしも黒人である必要がない」。
特にティモンは、どちらかというと、白人系のイケメン三枚目コメディアンのタッチです。
こういう、
他文化をリスペクトしつつも自分の土俵で勝負する自信のほどが、小気味よい。
それは
「ジャングル大帝」を「ライオン・キング」にした手法にもいえるでしょう。
(注:ディズニー側はこの関連性を否定しています。
 「ライオン・キング」は「バンビ」と「シェイクスピア」がベースとのこと)
それが3つ目の重要な点にもつながります。
ディズニーが映画「ライオン・キング」を作ったとき、
私は怒り心頭に発しました。
天下のディズニーがこんなパクリを平気な顔でやるのか?と。
抗議するどころか「どうぞどうぞ」の手塚サイドにも拍子抜けでした。
けれど
このミュージカルを見てみて、私は少し考えを変えました。
確かに枠組みは「ジャングル大帝」です。
でも、そこで語られるテーマが違う。
「ジャングル大帝」は、自然に対する人間の行動がテーマでした。
「開発」とか「啓蒙」とか「科学」とかの、良さと悪さ、叡知と傲慢が浮き彫りになります。
パンジャ(白いライオン=レオの父親)は人間に殺され、
レオ(「ライオンキング」でいうシンバにあたる)は人間の言葉をしゃべるのです。
白いライオンが対峙するのは、ライオンではなく人間でした。
翻って「ライオン・キング」。
ここに「人間」は出てきません。
アフリカの大地にいる動物たちが織りなすすべてを
「人間社会」になぞらえて描いています。
だから「シェイクスピア」なのです。
もっといえば、
文楽の二重構造は、「人形が人間を映す」だけでなく
「動物が人間を映す」という二重構造にもなっている。
一人の人間も出てこないで、人間社会を浮き彫りにする、
それが「ライオン・キング」です。
ヒヒのラフィキは、シャーマン的な要素をもったキャラクターです。
彼女が歌う歌は、世界を大きく包んでアフリカの太陽とともにすべてを照らし、
すべてを包む。
彼女の歌には、アフリカがある。
ブロードウェイに行ったなら、
ぜひ、「ライオン・キング」を見てください。
そこにあふれる人間賛歌を、
アフリカのリズムを、
人類文化の終結を、
差別でなくて、愛を。
「みんなちがって、みんないい」意味での、適材適所を。
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次回は、「ミュージカル」と「自分と向き合う勇気」について、書きます。

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