蜷川幸雄演出で、主演が野村萬斎、
勝村政信、木場勝己以下蜷川演劇の常連と、
長塚圭史、白井晃という蜷川舞台初参加のビッグネームでつづる
「ファウストの悲劇」。
ファウスト、というと、ゲーテのものがあまりにも有名だが、
実はファウスト博士は中世末期の実在の人物だという。
いろいろなウワサの絶えない伝説の人で、
それだけにブンガクの恰好の題材になったのだろう。
この「ファウストの悲劇」はゲーテより250年も前の
シェイクスピアの時代に書かれたものである。
ファウスト博士役の野村萬斎が素晴らしい。
私は西洋人に扮する野村を見ていいと思ったことがなかったのだが、
今回は、彼にしかこの役はできないのでは?と思うほどである。
特に前半、そのセリフ回しの確かさで、
ファウストの気持ちの移り変わりがよく理解できた。
対するメフィストフェレス役の勝村政信。
彼は身体で役を体現していた。
しかし。
舞台として成功しているかと問われれば、
率直に言って否、と私は答えるだろう。
「歌舞伎舞台」のしつらえって、よかったのか悪かったのか。
「歌舞伎」にした意味が、きっとどこかで出てくるのだろうと思って
ずーっと見ていたけれど、何もなかった。
単に歌舞伎が「大時代的で」「大見得切って」
「わざとらしい演出が売りの」舞台だから、
なんでもありで許してねっていうふうにしか見えなかった。
裏の楽屋をずっとほとんど見せているために
どこをどう切っても「これはお芝居」という空気が流れ、
肝心の「神と悪魔の両極に揺れる」ファウストの心の振り幅が
どこかうそっぽくみみっちく見えてしまう。
「神になる」「世界を支配する」とまで言って悪魔に魂を売ったのに、
やることは単なる世界旅行物見遊山や人をサルにするイタズラ程度。
こんなことをやりたいためだけに、悪魔と契約結んだのか~??
そして、
「死ぬのもこわくない、なぜなら死後の世界など信じてないから」
とうそぶいていたのに、
やっぱり神様に認められて天国にいきたかったって嘆く
その尋常でない落ち込みようがなかなか腑に落ちない。
前で述べたように、萬斎は好演している。
それでも最も大切なところがすっと胸の中にしみわたってこない。
ラストはものすごい長台詞なのだが、
「ああ、ここは嘆きと後悔の場面ね」とひとくくりして見えてしまい、
一つひとつの言葉にリアリティが感じられなかった。
それはなぜか。
私たちにとって、「神」や「天国」が遠いからである。
ファウストが
「死後の世界などない。地獄などない」と叫ぶとき、
その言葉がどれほどアナーキーでハレンチで、恐ろしくて、
人々の胸にギューッと重石や火ごてを押し付けるような痛みを与えるか。
その「痛み」が観客に伝わってこない。
聞いている者だけでなく、
言っているファウスト自身にとっても非常に「痛み」を伴っているはずなのに、
ファウストの「痛み」も感じられない。
神に公然とそむくことの恐怖、すべてを失いそうになる恐怖が
この芝居には欠けていた。
「地獄はどういうところだ?」と聞いた野村ファウストに、
地獄に対する恐怖は感じられなかった。
それは単に知的好奇心からの問いかけの雰囲気しかなかった。
「地獄はない」と自分に言い聞かせながらも、
本当は地獄が怖くて怖くて仕方がないという二極性を
もっともっと出してもらいたかった。
ルシファー役の星智也は、よく通る声とダイナミックな動きで、
悪の権化としての威厳がよく出ていたとはいえ、
「神」に匹敵する「悪」として、
見たら目が潰れる、とか、巨大すぎて顔に押しつぶされそうとか、
そういう尋常でないパワーはない。
人間が何かにおそれおののく瞬間というもの、
悪のブラックホールを前に吸い込まれそうになる恐怖を
この芝居では一度も感じることができなかった。
これではファウストの「悲劇」にはならないのでは?
単なる自業自得、単なる茶番。ほとんど喜劇。
そんなふうに思った次第である。
たまさか家で夫が「ディアボロス」をDVDで観ていた。
私も大好きで繰り返し観ている映画だが、
今回初めて「これって『ファウスト』なのね」と気付いた次第。
アル・パチーノが悪魔、
彼にほんろうされる虚栄心の強い弁護士がキアヌ・リーブスである。
アル・パチーノの人を食ったような、そして底知れない恐ろしい笑顔。
彼は自分の正しさを主張するキアヌに対し
キアヌの中にある「大罪」を指摘する。
自分は正しいと思って生きている人間にとて、
自分の中の「悪」を指摘されることほど、そしてそれを認めることほど
辛いことはない。
今回の舞台では「七つの大罪」は擬人化され、カリカチュアされて
舞台の上で白波五人男よろしく大見得を切るだけである。
あの一つひとつがファウストの内なる毒となって身をほろぼしていることに、
観客である私も、そしてファウスト自身も気付かずに、
舞台は終わってしまった感がある。
でも蜷川は、戯曲の台詞は変えない、というモットーがあるから、
大時代的な作品は大時代的にやるしかない。
そのため台詞自体に芸術的なあるいは哲学的なものが凝縮されている
力のある作品の演出が冴えわたる人なのだ。
だからマーロウの戯曲は、いっそのこと、
宮藤官九郎とかいのうえひでのりとか、
ああいう人たちに思いっきり料理してもらったほうが
血肉の通った「ファウストの悲劇」になったような気がする。
1回でいいから宝くじで大当たりしたいとか、
コクる勇気もないけど、親友の彼女とヤリたいとか、
ゴミ出しにいちいち文句つける隣のババア死んでくれとか、
そんな程度のことと引き換えにでも悪魔に魂売っちゃうような男の話として。
そんな考えなしの男だけど、
ゴキブリ叩いて殺したら、急に地獄行きがおそろしくなって
泣き出しちゃう、とか。
その程度の話で作ったほうが、わかりやすかったかもしれない。
とかなんとか言っても、
私にも「ファウスト」はわかってない。
ロビーで「ファウスト博士~ドイツ民衆本の世界」という本を買った。
「伝承としてのファウスト」が、当時の人々にとっていかなる存在だったか、
そして現代の私たちにとっては、どういう存在たりえるか、
もっともっと考えていきたいと思った。
「ファウストの悲劇」は東京・渋谷の「シアターコクーン」で7月25日まで。
公演は始まったばかり。
白井さんも長塚さんも、まだまだ活躍できずに消化不良な感じ。
もっとこなれていくと、彼ららしい味つけが出てくるかもしれない。
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