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「海辺のカフカ」@さいたま芸術劇場

2012年に初演され、好評を博した蜷川幸雄演出の「海辺のカフカ」。
村上春樹の小説をほとんど読んでいなかった私は当時、
「村上春樹の原作だから」という理由でスルーした。
でも、
自他ともに認めるハルキストの友人2人が
2人とも絶賛していたのを聞いて、
これが村上春樹を理解するいいチャンスだったのかも、と
ちょっと後悔していました。
だから今回再演が決まったときは、
「やった!」と思った。
ただし、俳優は半分変わった。
初演も観た人によると、内容も少し変化したみたいです。
舞台は3時間以上という長丁場ながら、
飽きるということのない展開と緊張感。
特によかったと感じたのは以下の点。
とにもかくにも、ナカタさん役の木場勝己の存在感が素晴らしかったということ。
前半終了間際、
ジョニーウォーカーが猫を…というところがあまりにリアルでおぞましかったこと。
舞台では初見の藤木直人の声が、
ソフトながらよく通って予想以上に舞台向きだと感じたこと。
ネコの着ぐるみの動きがリアルで違和感がなかったこと。
佐伯さん役の宮沢りえがきれいすぎて、少女時代の佐伯さんと見分けがつかなかったことは、
良かったともいえるし、悪かったともいえます。
物語は、こうだ。
(これから観る人は、ここから先はネタバレになるので、
 舞台を観終わってから読んでね。
 舞台は観ていないが、原作を読んだという人は
 このまま読み進めても大丈夫)
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父親を嫌って自分らしく生きようとした田村少年は、
「カラスと呼ばれる少年」に励まされ、家出をし、四国に行く。
行きの高速バスの中で、少年はさくらという少女に出会う。
さくらは姉のように少年を包む。
家出してから、少年は自分のことを「田村カフカ」と名乗る。
ある夜自分が血まみれになっているのに驚く。
東京では田村少年の父親が殺されている。
一方、幼いときの事故をきっかけで記憶を亡くし文字が読めない中高年男性ナカタさんは、
猫さがし名人として重宝がられており、一匹の迷子猫を探していた。
彼は猫と話ができた。
ナカタさんはジョニーウォーカーという猫さらいと遭遇、
彼に「自分を殺してくれ」と頼まれる。
ナカタさんは最初断るが、
自分の探している迷い猫や、探す過程で友だちになった猫を殺されそうになり、
思わずジョニーウォーカーを刺してしまう。
ナカタさんはすぐに自首するが、警官は本気にしない。
家に帰れと言われたナカタさんは、ある「使命」を感じて西へ西へと移動する。
字の読めないナカタさんは、移動にヒッチハイクを使い、
そこで出会ったトラック運転手ホシノさんとの珍道中が始まる。
田村少年は四国で佐伯さんに出会う。
佐伯さんは元恋人で幼馴染の男性の遺産である図書館を管理していた。
その男性は20歳のころ、別人と間違えられ東京で殺されていた。
図書館で働く大島さんには、
佐伯さんは恋人の死後、ずっと自分が死ぬのを待っているように見える。
田村少年は佐伯さんに自分を捨てて出て行った母親を重ね、
もしかしたら本当に佐伯さんは母親ではないかと考える。
佐伯さんは田村少年に自分の元恋人を重ね、
ある夜2人は1つになる。
四国についたナカタさんは「入口の石」をさがそうとする。
「入口の石」はホシノさんがみつけてきたが、
この石の入り口を開け、そして閉めるのがナカタさんの使命だという。
ナカタさんは佐伯さんに会い、自分の使命を打ち明ける。
佐伯さんは「そのときが来た」と感じる。
ナカタさんは、ホシノさんと同宿している旅館の一室で息をひきとる。
田村少年は佐伯さんを求め、「入口」を入っていくが、
そこで出会った佐伯さんは田村少年に「ここ」を出て生きるように願う。
二人は堅く抱擁して別れる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
観終わった後、私には消化不良な感じが残った。
「これは一体何をいいたい舞台なのか」その落としどころが見えなかったから。
当初、この「消化不良」は、
今回オーディションに受かって初舞台の古畑新之の技術不足に起因すると考えた。
彼の科白術では、主人公たる田村カフカの心情が迫ってくる場面が少なく、
単なる「弱い」「頼りない」「非力な」少年像を結ぶのみに役立っていると感じた。
母と息子の近親相かんをアイコン的にクライマックスにもってくるのは蜷川演劇ではよくあるところで、
そこに既視感は否めない。
古畑と同様、オーディションで蜷川に見いだされた藤原竜也もまた、
「身毒丸」で母親役の白石加代子に抱きついてクライマックスを迎える。
今回の作品では、
父を殺し、母を犯し、のオイディプス的世界があるのは一目瞭然だが、
息子の代わりに父を殺したナカタさんは、少年にとってどういう関係があるのかがまず不明。
ナカタさんに記憶障害を負わせた「事件」がどのくらい物語の全容に重大な関係があるのかも不明。
少年の分身とおぼしき「カラスと呼ばれる少年」が、
最終的に少年と一体化するのか
しないのか、なんだったのか、不明。
田村少年はなぜ父親を敵視し、嫌悪するのかが不明。だって、自分のもとを去ったのは母親。
ジョニー・ウォーカーさんはナカタさんが観た幻影であって、田村少年の父親が猫をナニしていたというのが事実という落としどころはない。劇では田村少年の本当の父親については、
気難しい彫刻家であったこと以外一切出てこない。
(ほかにもなぜカーネル・サンダースさんがホシノさんに「石」のありかをおしえるのかとか、
 なぜイワシが空から降ってきて、それをナカタさんが予言するのかとか、
 ナゾはいろいろあるが、それらは演劇スタイルとしてスルーすべきレベルのものと思った。)
こんなに疑問が噴出しているのに、
その原因が「新人俳優の力不足」だけのはずがない。
そう思って、私は人生2作品目となる村上春樹小説読破に挑んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結論。
この舞台は、小説「海辺のカフカ」の外観を完結に、わかりやすくまとめた。
各キャラクターの特徴や、場面の雰囲気を的確にとらえ、
「難解」と言われる原作小説を目の前に具体的なイメージとして結んでいる。
原作に書いてある台詞をそのまま使用している点でも「原作通り」の感が強い。
だから
「原作を読んでみよう」と思わせる端緒として大変有効で、
事実、読み進めるうちナカタさんとして木場勝己が、ジョニーゥオーカーとして新川将人が、
ホシノさんとして高橋努が、カーネル・サンダースとして鳥山正克が、
いきいきと物語を語ってくれる。
ある意味、
村上春樹の世界に誘う「入口」として、
これほど素晴らしい「石」はない、と思う。
だが一方で、
この舞台は「わかりやすさ」をすべてに優先するあまり、
原作の核心となるべき思索のすべてを意識的に捨て去ってしまった。
ナカタさんはなぜ、ジョニーウォーカーを殺したのか。
舞台を観る限り、
それはミミという自分に優しくしてくれた猫を、ジョニーウォーカーが殺そうとするので、
思わずそれを阻止した、というふうに見えた。
けれど、原作では違う。
ナカタさんははっきり言っている。
「自分の中にジョニーウォーカーさんが入ってきた」と。
自分の意志ではなく、他人に体が乗っ取られたこと。
これが、
ナカタさんの苦悩とリンクしてこの物語の重要なカギの一つなのだ。
ナカタさんは言う。
「自分はつねに空っぽだ」
「空っぽだから、誰かにのっとられる。それではいけない」と。
ナカタさんがなぜ文字が読めなくなったかとか、
そんなことはどうでもいいことなのだ。
「なぜ」ではなく「そういう自分をどう思っているか」これが一番大切。
それなのに、
舞台のナカタさんは、単なる「気の好い障害者おじさん」としてのみ描かれる。
一見そのように見えるナカタさんが、
なぜ「イワシを降らし」「石を見つけ」るために選ばれたのかについての考察がまったくない。
ホシノ青年についても、
原作にはたくさんの示唆に富むエピソードがある。
ホシノさんは、「死んだじいちゃんに似ている」というきっかけで
ナカタさんにやさしくするが
そのうち「自分の役割」を自認するようになる。
ベートーヴェンが自分のパトロンのためにつくった曲「大公トリオ」の由来を聞きながら、
天才には天才の仕事を助ける凡人が必要なんだ、
自分は凡人だけど、ナカタさんを助けると言う大切な役割があるんだ、と
自分の人生を初めて肯定的に認めるのである。
しかし、
この点もまったくスルー。
また、
田村少年は、今どきの少年よろしく、あまりものを考えない。
考えないで逃げてきた。本は読む。難しいことは知っている。
ナカタさんと違って、文字は読めるのだ。しかし、考えない。
「たぶん」とかいって判断を避ける。
そして、逃げる。
村上は登場人物の口を借りて、
そういう少年に対し、「もっとちゃんと考えるんだ」「自分の考えを持て」と何度も行っている。
しかしそのあたりを、舞台では重視していない。
ただ「カラスと呼ばれる少年」が、「タフになれ」と励ますだけだ。
そして最初にして最大のナゾ
「なぜ田村少年は、家を出たのか」。
原作では父親が少年に向かい
「お前は父を殺し、母を犯し、姉を犯す」と言い放っているとなっている。
そこが発端だ。
物語の冒頭、舞台の科白はほとんど原作のままだ。
しかしこの決定的な言葉は、口にするのもおぞましく、中盤まで出てこない。
出てきても「予言」という一語でほのめかされ、
具体的に出てくるのは後半である。
しかし舞台ではその頃、
もう「父を殺したのはナカタさん」で「君にはアリバイがある」という「事実」だけが光りを浴び
そんなことより
「佐伯さんは母親なの?」とか
「ナカタさんはどうして西に行くの?」とかそっちのほうへ
観客はリードされていく。
「なぜ僕の手に血が?」のナゾはどうでもよくなってしまうのである。
少年の「父殺し」「母との姦淫」「姉へのほのかな恋心」「家出という冒険」などは
「田村少年の」という個の苦悩ではなく、
「少年時代にはよくある衝動的妄想」として一般化されていく。
こんなにうすぼんやりしたテーマで村上春樹を論じることを、
村上春樹はどんなふうに眺めていたのだろうか。
どだい、
小説は小説として完結した世界である。
舞台と小説は別物なのである。
だから、彼は何も語らないのであろう。
木場勝己のナカタさん造型には、演劇というもののすべてがつまっていると思う。
彼は何度も小説を読み、初心に帰り、常に「ナカタさん」と対峙して演じている。
彼が「単なる障害者」のように描かれているのにそれ以上の何物かに見えるのは、
彼がナカタさんの本質をしっかりとつかんでいるからだ。
そのナカタさんのやさしくて味わいのある科白を受けて立つホシノ青年もまた、
こんなに人間味のある人物としてしみわたってくるのは、
高橋努もまた、原作を読み込んでいるからだと思う。
「観てから読むか、読んでから観るか」。
どちらかで印象ががらりと変わるものかもしれない。
私は舞台を先に観たことで、鮮烈なイメージをいただいた。
だから読み通せた。だから、理解できた。
その意味で、蜷川舞台に大いに感謝する。
最高の、入り口の石。それが、この舞台である。

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